大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2026年9月19日(土)第98回「センターの日」——やさしい街、釜ヶ崎

■やさしい街、釜ヶ崎

 この古い写真、1970年代、おそらく萩之茶屋駅近くで撮られた一枚です。

 この写真が撮られた頃、横浜寿町で一人の労働者がドヤに暮らしていました。そしてその日常を文にしました。

「何もかもまっくらで、、、壁に向かってにらめっこしていました。何となく心がさみしくてしかたなかった」

 初めてこの文を知った時の私はまだ若くて、壁とにらめっこの経験もなく、ピンとこない文でした。でもなぜか数十年後の今に至るまでこの文を忘れることはありませんでした。

 今は思います。たとえいつかピンとくるようになっても、こんなやさしい文は自分には書けないなあ、と。 この方は1980年代になってまっくらな日々を出て、それまでの自分の姿を私たちに話してくれました。この文を書いて、読み上げて、聴かせてくれました。

 半世紀以上前のこの写真を見ていると、撮影した人がこの一枚に託したものが分かる気がしてきます。 思い思いに歩道や公園を我が家とする釜ヶ崎の住人たち。当時のドヤ街に確かにあった、あの、寿町の労働者のたくましい生き様を育むものが、この一枚から透かし見えてくる気がするのです。

 私はやさしい人たちが住むこの街釜ヶ崎が好きです。でもこの街では残念なことがよく起きます。街の外からやってきて街の人に嫌がらせをして暴力をふるう人がいたり、街に暮らす人が同じ街の人に暴言を吐いて傷つけたりすることもあります。誰もが誰をも傷つけない街になってほしいと思います。この街はそれができる街だと私は思っています。日本中どこの街ができなくてもこの街はできる、と思っています。

 やさしい人はやさしさをひっそりと抱えて生きています。傷つけられても人を責める前に自分を責める。壁とにらめっこしたり、 さみしさのやり場がなく苦しんだりしても、やさしさを手放すことはしません。やさしくしか生きられないので、いつもうつむきかげんで、自分が悪いと感じてしまう。傷つけられても声を上げられない。

 私はこの街に住んで、自分を責めながらそれでも自分を大切に生きる人たちを何人も見てきました。月に一度の「センターの日」もそんな人たちとの出会いの時間です。

■定点観測釜ヶ崎——北西側をぐるっと

 7月は『定点観測釜ヶ崎』以外の場所を中島写真をもとに探索してみたのですが、目印となるものが残されていない場合が多く、難航しています。

 

 8月はNo.20、24、30、33、39、43、49の7ヶ所を撮影しました。シェルター前を通過して尼平線に出て、太子筋を南下してションベンガードから銀座通りに戻るというルートでした。

 

 ションベンガードを太子側から撮ったNo.20を見ると、ガード沿いにあった大木だけでなく、手前にあった立派な街路樹も伐採されてしまっていることに気づきます。大きな変化がなさそうな場所でも掲示物に注目すると発見があります。第一次暴動で襲撃された東田派出所跡近くの電柱の広告、2017年はナンキンムシ駆除業者だったのが、現在はバイセップス下寺営業所になっています(No.30)。シェルター前の通りにある、三角屋根が特徴的な「ビジネスホテル弘川」はどうやら外国人観光客向けのホテルとして稼働しているようです(No.39)。囲い屋ができていたり、シャッターが降りたままだったり、特に変化のない場所もありました(No.24、33、43、49)。

 

 

 

第98回「センターの日」のお知らせ

「センターの日」とは

 労働者の街として知られる大阪の釜ヶ崎は今、大きな再開発の波にさらされています。2012年に始まった西成特区構想による「まちづくり」も進められています。貧困層の追い出しをともなうジェントリフィケーションであるとの批判もあります。

 地域住民と行政が協同して地域を良くしようと努力しているとの主張がある一方、これまでと変わらない強制排除が幾度となく繰り返されています。真実はいったいどこにあるのでしょうか?

 労働者の街である釜ヶ崎に、あいりん総合センターという施設があります。センターは釜ヶ崎の中核とも言える場所です。このセンターの建て替え、閉鎖、仮移転がまちづくりの会議の中で決定しました。

 釜ヶ崎で何が起きているのか、私たちは何かできることはないのか、私たちは何を知るべきなのか。一から考えるために、私たちは2017年11月から月に一回、第三土曜日に釜ヶ崎のセンターで労働者の声を聞く取り組み、「センターの日」をはじめました。

場所・日時のご案内

 JR新今宮駅西口から地上に出て、国道の向かいのあいりん総合センターの周辺で、2026年9月19日(土)14時から16時に実施します(基本的に毎月第三土曜日)。

これまでの「センターの日」

 これまでの報告はこちらです。

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回(中止) 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56・57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回 第69回 第70回 第71回 第72回 第73回 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回 第80回 第81回 第82回 第83回 第84回 第85回 第86回 第87回 第88回 第89回 第90回 第91回 第92回 第93回 第94回 第95回 第96回 第97回 

2026年9月17日(木)夜回り・公園を必要とする人たちと多様なニーズ

 話がややこしくなってきたので少し整理します。 
 ①「協力し合えばお互い助かる関係」が「みんな」という意識を生み出し、維持していく源である。
 ②しかし、協力し合うことによって生まれる価値を手に入れられることが大切だったのに、「そのように協力し合う私たち」にすでに価値があるように思えてきてしまう。
 ③そうなると、「助ける」「助けられる」非対称的な関係が問題になり、④この非対称的で一方的な関係を受け入れるためには、どこかで「お互い様」だと折り合いをつけなければならない。
 ⑤したがって、そういう「お互い様」の折り合いをつけなければ「みんな」という美しいものにはならない。
 ここで「みんなのもの=公有地」に立ち返って考えてみると、「公有地」はそのような面倒くさい作業を置き去りにしたまま、理想を実現する場のように錯覚させるものです。
 「公園はみんなのもの」という時の公園とはもちろん「公有地」ですが、「公有地」と呼んでごまかしたところで、「みんな」とは「協力し合えばお互い助かる関係」であり、たとえその都度入れ替わりがあるとしても、抽象的な不特定多数のことではありません。公園を必要とする人たちがいて、そしてその必要性(ニーズ)はさまざまです。
 多様なニーズを持ち寄って一つの場所で活動すれば、どの活動にも支障が出るような事態が起こるかもしれません。そうなると調整が必要になってきます。
 
 雨続きですが、先日の寄り合いは無事行うことができました。脳梗塞で入院していたという仲間もいてびっくりしました。

2026年9月3日(木)夜回り・「みんな」とは成り立ちにくいもの

 前回は「協力し合えばお互い助かる関係」が「みんな」という意識を生み出し、維持していく源なのではないかという話でした。

 ところが、おそらく「協力し合えばお互い助かる関係」というのは、それ自体が変な価値を持ちはじめてしまうようなものだと思うのです。本来は協力し合うことによって生まれる価値を手に入れられることが大切だったのに、「そのように協力し合う私たち」にすでに価値があるように思えてきてしまいます。

 もちろん、協力し合うことには価値があるのだと思います。人は生まれた時から一人では生きていけないのだから、協力し合うことは宿命ですらあるはずです。正確には「助けてもらう」ことが最初にあって、そのあとに「助ける」側に回ることが迫られるのでしょう。

 しかし、これは「協力し合う」とか、「力を合わせる」とは違っています。ここには「助ける」「助けられる」非対称的な関係があります。つまり、この一時点だけを取り出せばこの関係は対等ではないのです。この非対称的で一方的な関係を受け入れるためには、どこかで「お互い様」だと折り合いをつけなければいけません。

 一人一人には力の差があるものです。それには生まれ持ったものであったり、その状況によって生じるものもあったりするので、同じだけのものを出し合うというわけにはいきません。「みんな」というのは、その語感からすれば一枚岩で対等な集まりのように思われるけれども、そういうふうには成り立ちにくいものだと言えるでしょう。

 それなら「みんなのもの=公有地」もまた、成り立ちにくいものではないでしょうか。

 

 もはや何のビラなのか分かりませんが、最後の一文でなんとなくつじつまを合わせています。

2026年8月20日(木)夜回り・協力しあえばお互い助かる関係

 公有地を指して言う「みんなのもの」は、「みんな」と「誰か」をめぐる、もう少し複雑な内実を見ないようにしているのではないか——といったことを前回書きました。

 また「みんな」という言葉が出てくる時に、入れ替え可能な「あなた」と「誰か」という区分が生まれてしまうという話もありました。

 「みんな」と言ったとたんに一人一人の顔が見えなくなります。3人くらいで一人一人の顔を思い浮かべて「みんな」と言う場合は別としても、人数が増えていけば存在を軽視される「誰か」になってしまう人が出てきそうです。

 「みんな」と言う時には何らかの共通性を意識して、基本的には仲間意識を持つべきものと考えられているのだと思います。しかし「みんな」として想定されている規模が大きくなれば、だんだん建前が大きくなると思うのです。

 このように言っていて、「みんな」という言葉を成り立たせるものとして、共通性と仲間意識という二つをキーワードとして用いていることに気づきました。これは「何のために「みんな」と言わなければならないのか」にかかわる問題だと思われます。

 ここには協力しあえばお互いが助かる関係があるのでしょう。このことを二つのキーワードに即して考えてみると、協力しあうことで利益が得られるところが共通していて、つまり価値が生み出されることになります。そして、この価値を自分たちのものだと感じること、そして、協力関係を維持していこうという志向が仲間意識ということになるでしょうか。 
 

 8月の寄り合いは暑さのやわらいだタイミングで行うことができました。まだまだ暑い日が続き、千葉県の豪雨災害のように天候には気をつけなければいけません。野宿場所を変えなければいけない場合もあると思いますが、また寄り合いでお会いできるとさいわいです。

2026年8月6日(木)夜回り・入れ替え可能な「あなた」と「誰か」

 そもそも「みんな」とは何なのか。ここを考える必要があるのではないかというのが、前回のまとめでした。

 まず、あなたと私、そして誰かの三人がいて、その三人のことを「みんな」と呼ぶのが一番小さい「みんな」の範囲でしょう。二人ではあえて「みんな」と言う必要はありません。「僕たち」「私たち」と呼びかけた方が自然な気がします。

 あなたと私というのも不思議な言い方です。私にとって私は私として変わらないけど、「あなた」は「誰か」と入れ替えることができます。「あなた」は流動的なのです。そう考えると入れ替え可能な「誰か」がいるところで「みんな」という言葉が必要になるわけです。

 なぜ「みんな」という言葉が必要になるのでしょう。私とあなた、二人だけでは困る事情があるようです。あるいは三人目がいるから「みんな」という言葉が必要になるのかもしれません。私とあなただけしかいないなどということはそもそもありえないのだから、「みんな」のことを考えなければならない方が先で、「あなた」の方が後で考えられたのかもしれません。あるいは「私」もそうなのかも。「誰か」はたくさんいるけど、すべての人が「みんな」に含まれるわけではありません。あるいは「みんな」と考えたために、「みんな」に含まれない「誰か」のことも見つけてしまったのでしょうか。

 公有地を指して言う「みんなのもの」は、「みんな」と「誰か」をめぐる、もう少し複雑な内実を見ないようにしているように思われます。そうでなくても本当は困らないのに、そうしないと困ると思い込んでいることがあるのではないでしょうか。

 

 熊本の地震には驚きました。誰がいつ困難に襲われるのか分かりません。ベネズエラの地震も記憶に新しいところです。「私たち」が良い想像力であるためには何が必要なのでしょう。

2026年7月23日(木)夜回り・公有地はみんなのものではない

 前回に引き続き、共有地(コモンズ)について考えてみたいと思います。

 公有地と共有地を分ける論点として「みんなのもの」という考え方があるように思います。

 そういえば国有地という言い方もあります。国有地というのは公有地のように思われますが、公有地には自治体が管理している土地があるので、国が管理している土地を特に「国有地」というのかもしれません。市有地、県有地という言い方もあるようなので、これらを引っくるめて公有地でしょうか。

 市有地や県有地で検索すると「売却」という文字が出てきます。売却されれば民有地、私有地になります。「みんなのもの」である公有地を売ることができる、「私物にできる」のはそもそもおかしい気がします。

 そう考えると「公有地」と言われているものは、実際には国や自治体のものです。国や自治体は国民や住民の意思が反映された機関であると考えれば、「みんなの意思」で土地を売却したり、使い道を決めたりしていることになります。しかし、もちろんそんなわけはないでしょう。国や自治体といった制度は「みんなの意思」が反映されるものとして設計されているとしても、その通り機能しているとは限りません。だとすれば、制度のあり方を見直す余地がありそうです。

 そもそも「みんな」とは何なのか。やっぱりここを考える必要があるように思われます。

 

 いよいよ暑くなってきました。熱中症にならないよう気をつけて過ごしましょう。