大阪城公園よろず相談

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2024年2月17日(土)第74回「センターの日」——中島写真を読み解く③——『写真集 ドヤ街——釜ヶ崎』(1986年、晩聲社)

全体の構成

 今回は中島さんの最初の写真集である『ドヤ街——釜ヶ崎』を取り上げたいと思います。

 この写真集は4つの部分に分かれています。まず、導入のⅰは新聞記事からはじまります。1932年の米騒動の記事、1961年の第一次暴動の記事、1967年の第三次暴動の記事と続きます。そのあと、阿倍野斎場に収蔵されている墓籍と書かれた2冊の冊子(明治、大正、昭和初期)、明治7年の今宮村の地図の写真が掲載されています。そして、最後に前回紹介した阿倍野斎場の無縁仏の碑などの写真が見られます。

 ⅱはこの写真集の中心となる部分です。前半はドヤで暮らす労働者の部屋が、本人の姿とともに撮られた写真です。これらの写真にはホテル名、1泊部屋代、ランク、タイプ、撮影年が書かれています。後半は監視カメラの写真、越冬活動、「ふるさとの家・老人センター」の無縁仏ロッカー、センターやメーデーの写真、建設中のドヤ、炊き出しに並ぶ人の姿などです。

 ⅱの写真が1985年から1986年にかけて撮られたものであるのに対して、ⅲの写真は1969年から78年にかけて撮られた18枚です。キリスト教会、大きな錠前のついた扉、公園のトイレの手洗い場で足を洗う男性、路上の絵描き(?)、仕事の風景、電柱に貼られたビラ、労働現場、野外でくつろいでいる労働者たちの写真が見られます。

 最後は「資料」編です。第一次暴動の新聞記事、1933年の武田麟太郎の小説『釜ヶ崎』の冒頭部分、『労務者渡世』の記事などから転載された文字資料、図表などがあり、「第一次タイプ」から「第五次タイプ」にわたる「絵でみるドヤの変遷」というイラストがあります。

作品作りの過程

 タイトルが「ドヤ街」であり、写真の枚数から言っても、中心的位置付けにあるのはⅱの前半のドヤの個室の写真でしょう。一人のカメラマンとして釜ヶ崎をテーマとした写真集をまとめようとした時に、ドヤの個室のユニークさに着目したのでしょう。ここが出発点であることはまちがいないと思います。ここを作品の中核とするためにほかの部分があるはずです。

 ⅰは釜ヶ崎の労働者の社会的、歴史的な位置づけをしようとした部分だと考えてよいでしょう。釜ヶ崎を語るのに暴動を外すわけにはいかないし、大正期の米騒動と暴動を地続きで位置づけようという意図が見られます。「資料」の文字情報はⅰでしめした枠組みを補おうとしたものだし、「絵でみるドヤの変遷」のイラストはⅱのドヤの個室の写真の理解をふくらませるためのものでしょう。最後にⅲは「ドヤ街」のコンセプトをつかむ以前に撮りためた写真のなかからのセレクトということになるのだと思います。

 ドヤの個室の写真は労働者の「生活」をとらえた部分と言えるでしょう。言うなれば「生」の部分を光とし、影の部分としての「死」を対置するものとして無縁仏にまつわる写真があるように思われます。

中島写真の戦略——「記録の力」

 中島さんの写真は、1枚1枚取り出して観るものではなく、何か設定された軸があって、その軸に沿って蓄積される「記録の力」を活かすのが基本戦略なのでしょう。「記録の力」を念頭に、次回以降も、もう少し作品集を見ていきたいと思います。