第43回「センターの日」のあらまし
例年だと6月はもう暑いので、かき氷を用意して行ったのに、あいにくの雨でした。それでもお付き合いいただいたみなさん、ありがとうございました。かき氷用に用意した練乳はインスタントコーヒーに流用されて人気でした。ビンにいっぱいだった砂糖も空になりました。
映画はここのところ男はつらいよに安易に逃げています。シリーズ49作目にあたる1997年の「寅次郎ハイビスカスの花 特別編」をみました。
以下では、久しぶりに「センターの日」に参加した仲間がみたセンターの印象を、夜回りのビラから転載します。
センターに現れたゴミ山
先日釜ヶ崎の、あいりん総合センターに行ってきた。久しぶりに行って、センター周辺に不法投棄のゴミがうず高く積もり、人がゴミに埋もれて寝ているという光景にショックを受けた。ゴミ山の向こうにいる労働者に「おーい!」と呼びかけると「なんやー」と返答。「この物品はあなた方のものですかー?!」と尋ねると「んなわけないやろー!全部他所から運び込まれて来るんやー!」
シャッターが降ろされてはや2年が過ぎ、かつて日本最大の寄せ場と言われ、全国に名を馳せた日雇い労働者の街は今、労働市場の新たなシステムに押され、名実ともに解体されようとしている。人夫出し産業が空洞化した街の暴動や貧困のイメージを刷新し、天王寺の裏町的なエリアとして付加価値をつけ、「新今宮ワンダーランド」「来たらだいたい、なんとかなる」「多様性と包容力に溢れた街」なんてキャッチコピーで街を売り出しているのだ。
その街の片隅で、難波宮で出会ったTさんが路上死したと聞いたのはまだつい最近のこと。「多様性と包容力に溢れて」いるはずなのに、この街では路上死がなくなっていない。誰がいつの間に捨てたのか、小さな悪意の集積のようなゴミ山が現れている。ここに人が住んでいることが見えないのか、ここを無法空間のように印象付けるためなのか、センターを廃墟と化して無きものにしようとする意図なのか、人間やその人々の生きた場所としての記憶、そういった尊厳なるものがこのように扱われていることに対して腹が立った。
絶賛発売中の多様性と包容力に溢れた街では、人間がゴミに埋もれて死んでいく。それは野垂れ死ぬ人々への制裁のように見えた。