大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2023年1月21日(土)第62回「センターの日」——本年も「センターの日」をよろしくお願いいたします

 年が明けても前途多難な日々が続きます。いえ、こちらの話です。

 人は関係の中で生きるものです。たとえ、そうと意識していなくとも、互いに助け合っているものですし、特に社会というのはそうした分業を前提にしてできあがっています。しかし、社会のほうでは、助け合っているという意識もなく、気づきもず、気づかせもせずに利用し、利用される非対称的な関係が作られているかもしれません。

 いかな善意や献身に支えられたものであれ、独りよがりなものになっていれば、ある人にとってはありがたいことでも、周りの人にとっては迷惑なものになっているということもあるでしょう。また、献身の対象にとってすらありがたがられなければ、やっている当人は不満をため込み、周りに当たり散らすかもしれません。

 八つ当たりの対象にされても、反発するのではなく、受けとめるのが愛というものかもしれません。しかし、受けとめるばかりが愛というわけでもないでしょう。というか、また愛とかいって、いくらでも現実から目を逸らせてしまうのが人間なのだなと思います。

 25年くらい前にアダルトチルドレンという言葉が流行りました。アダルトチルドレンとは、家族関係に問題を抱えた家庭環境で育った大人のことです。アルコール依存症だったり、仕事依存性だったりする父親がいて、その父親のダメっぷりを母親が支えてしまいます。この共犯関係をアダルトチルドレンという概念においては共依存と呼ばれます。

 共依存というのは、言ってみれば関係への依存です。誰かの支えになることで、自分の存在意義を確認しているのです。自分の存在意義を確認し続けるためには、常に献身を裏切る相手のほうが都合が良いので、わざわざダメな相手を選ぶことになります。相手の方も、ダメ人間である自分を責めながら、そうした献身に頼らざるをえないようになっていきます。

 関係への依存は、人間の宿命なのだと思います。これは助け合いの目的が見失われ、相手のためだと言いながら、自分のためでしかない事実から目を逸らしていると、独善に陥ってしまうのです。

 関係への依存は、言葉を使う能力とかかわっているのだと思います。言葉を使うということは、悩むことができるということです。相手が言ったことの「こうかもしれない」可能性に気づいて、思いやりができるのは言葉に支えられた力です。しかし、自分の言葉にしがみつき、「そうではない」ことを言って、現実から目を逸らしてしまえるのも、言葉を使うがゆえなのです。

 言葉を使うことで、我慢ができるようになり、我慢ができるから、何が相手のためになるのか思いやることができます。ここに人類という種の進化の特性があるのでしょう。しかし、この進化の特性は行きづまっているように思われます。その行きづまりを意識すること自体もまた、可能性であり、呪縛でもあるわけです。

 「センターの日」は今年も説明のつかないことを、毎月第三土曜日にやっています。気の向くままにお付き合いください。