予定していた映画観られず
9月に1954年の『ゴジラ』を観た流れで、大阪にゴジラが上陸する1989年の『ゴジラVSビオランテ』を観る予定だったのですが、モニターに出力することができませんでした。この間まではできたことが、機械の都合でできなくなっていました。仕方ないので、別の映画でその場をしのぎました。
雨の一日
また、この土曜日は狙ったかのように雨が降りました。コンパネを金網の上に渡して屋根を作って、その下で鶏もも肉やウィンナー、おもちを焼いて食べました。
いつもお昼の時間帯にいる弁当やDVDを売っている露店もなく、センター周辺は人影がまばらでした。萩の森予定地のテントの下は人が集まっていました。何はなくとも屋根があることの大切さがうかがえます。人間にとって屋根とはいったい何なのだろうかと考えさせられます。
こんな人の集まらない雨の日にこの「センターの日」とやらをやる必要があるのだろうかと一瞬、自分で疑問に思えてしまうこともありましたが、「コーヒーある?」と訪ねてきてもらえるのが嬉しい限りです。
この半年をふりかえると
10月から11月にかけての一ヶ月で、震えが来るような寒い日があったかと思えば、まだマシな暖かな日が訪れ、どんなに暑い夏が来てもいずれ冬が来るのだなと当たり前のことを不思議に感じます。
センターに対する強制立ち退きも今来るかもう来るか、まだしばらく来ないのではと、先の見えないまま季節だけは移り変わろうとしています。
5月から7月にかけては、住民登録のない人への特別定額給付金の給付を求めて、市役所に何度も通ったのが遠い昔のようです。あの住民投票も、否決という結果で終わってしまえば、早くもつかみどころのない日常に戻ってしまいました。
新型コロナウイルスはすでに第一波以上の勢いで広がっているのに、GOTOキャンペーンやオリンピックのことばかりです。
ああでもなくこうでもなく
大切なものは、やはり見ようとしなければ見えないし、つかもうとしなければつかめないのだと思います。しかし、同時に見ようとするから見えなくなり、つかもうとするからつかめなくなることもあります。
日々の営みとして繰り返されることは、仕方ないからそうしているだけであったり、結果的にそうしているだけで、必ずしも特別な意味があるわけではありません。
何かが存在しなければ、存在しないことを意識することはできません。何も存在しないところから何かの存在に気づくということはありません。それなら、見えるものを見ているからこそ、見えないものを見ることもできることになります。
私たちに何か力があるとすれば、取るに足らない繰り返しのなかにも、その力を引き出す道筋は描かれているでしょう。何もないところで何かを繰り返すことはできません。