第33回「センターの日」のあらまし
先月に続いて、8月もかき氷メインで行いました。「コーヒーはどんなコーヒーなの?」と気にして待つ人がいらしたのですが、マイスターが遅刻して提供できず、残念でした。センターで野宿している人に、裁判関係の資料を見せていただくと、取り出されたのはかつての電話帳のような厚みの封筒でびっくりしました。
映画は往年の名作「カサブランカ」を観ました。世捨て人のような顔をして暮らす主人公が、別の男につれそうかつての恋人につれない態度を取りつつ、最後には彼らを送り出す手配をします。彼を後押ししたのは私情なのでしょうか、大義なのでしょうか。
決めているのは誰なのか
人を動かすのは私情なのか、大義なのか。そんなことはどっちでもいいのだと思います。動機などというものは、行動したあとにあれこれ付け足して納得するためにあるもので、本当のところは誰にもわかりません。
また、何かを考え、決断し、行動することは、その人にとっての問題であるようで、決して一人で何もかもをやっているわけではありません。その人がどこかで誰かと出会い、経験を重ねるなかで、相手を意識しながら自分自身の役割を選んでいくのが本当だからです。
一人ひとりがセンターに持ち寄っているもの
センターにいても、私たちは一人ひとりバラバラであるように感じられるかもしれません。しかし、見えないけれども、私たちがつないでいこうとしているものがセンターにはあるのだと思います。
「センターの日」をはじめたばかりのころ、「俺にとってはありがたい」、「毎週でもやって欲しいく」、「センターが閉鎖されても続けて欲しい」と言われました。得体の知れない取り組みに、なぜこんな言葉がかけられるのでしょうか。
私たちは「そもそもセンターはそういう場所なのではないか」という着想から「センターの日」をはじめました。もともと一人ひとりがセンターに持ち寄っているものがあって、それらはちょっとしたきっかけさえあれば、まとまって形になるエネルギーなのだと思います。
みんなが集まる場所
「センターの日」は、まずはそのような潜在力の存在を確かめる実験でした。それが確かめられたら、次に私たちは、一緒になってどんな形を作れるのか、今作るべきなのかを知るために「センターの日」を続けてきました。
「センターの日」は、たかだか月に一回の寄り合いにすぎません。しかし、私たちは常に考え続けています。相手を知り、自分を知ることから、私たちの可能性は新たに生まれてくるのだと思います。追い出されても、潰されても、この場所にみんなが集まってくる限り、道が閉ざされることはありません。もとより一人ひとりが越えていく道は、ともに歩む道ともなるはずです。目に見える形で手を取り合っていなくても、運命をともにする仲間になることはできます。