大阪城公園よろず相談

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2024年4月20日(土)第76回「センターの日」——中島写真を読み解く⑤——日常の視界

 前回(第4回)書いたように、今回は「記録の力」を引き出すために中島さんがやっていることの内実を掘り下げていきたいと思います。

撮りためる、撮り続けるということ

 「記録の力」の前提になるのは、まず撮りためることであり、撮り続けることだと思います。これは、日常の中で撮ることであり、撮ることを日常としているということです。また、決して事件や出来事を探して撮るのではなく、日常を撮ることでもあります。

 第2回で、中島さんの写真は「釜ヶ崎の外の人たち、釜ヶ崎の外の社会に向けて、「釜ヶ崎らしさ」を伝えようとしたものである」のではないかと書きました。また、第1回目では、「中島さんの写真は直感的に撮られたものというより、自分の中でイメージをすり合わせながら理解を深めていく過程であり、その結果として形になっている」のではないかと書きました。これらは最初期の1972年に撮られた写真を見ながら考えたことです。

 1冊目の『ドヤ街』(1986年)には、この時期の写真も含まれています。この写真集の主題となるのは、ドヤの個室での労働者の暮らしぶりを収めたポートレートで、これらはある時期に集中的に撮りためられています。このポートレートの集合によって、それまでの写真に釜ヶ崎の背景をなす役割を持たせることができたのでしょう。

二つの「記録の力」

 中島写真には少なくとも二つの「記録の力」があることになります。ドヤ暮らしのポートレートのように、テーマをしぼって比較可能な形にすることで生み出された第一の力があり、第一の力によって、日常の中で撮りため、撮り続けられた写真に対して、背景としての意味を引き出す第二の力が生まれてくるのです。

 『定点観測 釜ヶ崎』では、その記録の力は、自分以外の誰かが撮った写真にまで拡張されていることになります。このアイデアも、釜ヶ崎の中の日常の風景を日常の中で撮り続けている中島さんだからこそ、形になったもののように思われます。

 第3回で「中島さんの写真は、1枚1枚取り出して観るものではなく、何か設定された軸があって、その軸に沿って蓄積される「記録の力」を活かすのが基本戦略なのでしょう」と書きました。『定点観測 釜ヶ崎』では、誰かが撮った写真に重ね合わせた現在の風景を撮っているわけですから、中島敏の個性が入り込む余地はありません。しかし、そうやって自分の個性を消すところでしか撮りえないものを撮っていることになります。

三つめの「記録の力」

 井上青龍を筆頭に、1枚1枚の写真にインパクトのある写真家はたくさんいます。中島写真を1枚1枚見ているだけでは、そういった迫ってくる個性は弱いように思われます。しかし、それは無個性ではなく、それこそが中島敏の個性といっても良いように思います。

 写真だけでなく、文書記録も作品世界に織り込んでいくところも特徴的です。しかし、文書記録もまた、記録の力を帯びた写真によって、引き寄せられたものです。これは中島写真第三の「記録の力」と言ってもいいかもしれません。

 『ドヤ街』に転載された新聞記事も、カメラで撮られた写真として収められています。これは、中島写真は私たちが目にする日常の視界そのものであり、中島さんが世界と向き合う姿勢の現れと読み解くことができるかもしれません。