第81回「センターの日」
10月の「センターの日」は天候も悪く、立ちよってくれた人もごく少数でした。お好み焼きを焼くのに、サラダ油を忘れてしまい、マヨネーズで代用しました。チューブ入りの明太子を混ぜたところが目新しかったかと思います。 今月はホットケーキにしようと思うのですが、ホイップクリームをトッピングしてみることにしました。業務スーパーで、解凍すればそのまま絞り出せる便利な一品を見つけたので、これを試してみます。
しかし、どうやら今月も雨が降るようなので、ぼちぼちでやりたいと思います。
「世間」と「人情」
阿部謹也という歴史学者が日本社会の「世間」について論じた本を読み直しています。日本社会は、公明正大であることを目指す「社会」とは別に、内輪のルールが支配する「世間」があって、結局は「世間」の不透明な決定が通ってしまうといったような話です。
「理屈はわかるけど、仕方ない」「世間知らずなやつめ」「世の中そんなもんだよ」などとよく言われます。また、そういった事情を理解して上手に「世渡り」できる人が関心されるようなところもあります。
3年前の「センターの日」のビラに次のようなことを書いたことがあります。
資本主義の矛盾が凝縮されたこの街で、さまざまな事情を持った人たちが境遇を同じくしています。しかし、その矛盾に抗うようなエネルギーが釜ヶ崎の魅力であり、人情だったのではないでしょうか。
昔、飯場に入る手引きをしてくれたある労働者は「西成は情が廃れたいうけどな、そんなことないんや」と言っていました。このような「人情」も「世間」と同じものなら、せっかくの議論の積み重ねを台無しにする、ダブルスタンダードの温床にすぎないことになります。
一方で、1970年代の釜ヶ崎は「革命が起こるならここからだと思ってた」と言われるような場所でした。もう一つの社会を可能にするような「オルタナティブ」を提示するものだったのです。
オルタナティブとダブルスタンダード
オルタナティブとダブルスタンダードの違いはいったいどこにあるのでしょうか。たぶん、そんなことを問うことに意味はありません。問題はダブルスタンダードであるところにあるのだし、実はダブルスタンダードですらないのだと思います。
日本社会で支配的なものは、表面的な「社会」のルールに食い込んだ人たちの「内輪のルール」が置き換えられているだけだと考えると、「内輪のルール」はいくつもあるし、入れ替わることもあります。内輪のルールを共有する人のつながりがあちこちにあって、それぞれ勝手なことをやっているのでしょう。
「世間」に回収されない「人情」
「世間」と「人情」は必ずしも地続きではないけど、地続きになってしまうのだと思います。それなら、「世間」に回収されない「人情」はもともとありうるはずです。「困っているやつがいたら助けてやるもんだ」という人情は、きわめて理性的なものではないでしょうか。
困っている人は孤立している人です。孤立している人に手をさしのべようという人は、その人を孤立させたものに背くことになります。行動するときには衝動的でも、次にそうするときには頭が働きます。理性的でなければ人情のあり方は定められないのです。