第34回「センターの日」のあらまし
もうかき氷でもないかなと9月の「センターの日」はおなじみのバーベキューコンロで炭火焼をしました。カンパでいただいた冷凍カレイをひっきりなしに焼き切りました。塩こしょうにしょうゆをたらして食べると唾液がわきでる味わいでした。洋食のコックの修業をしていたという方が上手に焼いて下さいました。
「今日はかき氷はないの?」との声もありました。火は焚けても冷たいものは手に入りにくい野宿生活、かき氷は結構楽しみにしてもらえるのかなと思いました。
映画は1954年公開の一作目の「ゴジラ」をみました。いつもと違うモニターを持ってきたら、ケーブルの種類が違って写せないというポカをまたやらかしてしまい、自転車を走らせてモニターを交換してきました。開発者の芹沢博士自らゴジラを殺すためのオキシジェン・デストロイヤーの設置に出向いた理由は、頭の中の設計図ごと危険な兵器を葬るためでした。
追い出しの壁
医療センターの移転先の建物が完成し、センター敷地内でくらす人びとに対する立ち退き訴訟が進められています。立ち退きに対する反論文書への大阪府の反論を読むと、最初から一切ゆずる気のない高圧的な文章に疲労感をおぼえました。「野宿せずに済むような配慮は示してきた」「ボトムアップのまちづくりの取り組みの結果である」などと書かれているのを読むと、これはもうコミュニケーションではなく、壁を作りたいだけなのだとぐったりさせられます。
突きつけられた理屈に理屈を返すと、その理屈にしばられるようになります。かといって、のらりくらりとやり過ごすのが正解とも言い切れない難しさもあります。しかし、そうやって一つの場所に押し込められることにも抗う必要があるのだと思います。
路上の権利の二つの顔
「野宿は劣悪な生活状態であり、望ましいものではない。生活保護を受けてまずは落ち着けるようにするべきだ」とよく言われます。生活保護を受ける権利があるという意味で、野宿者にも人権はあるようです。しかし、裏を返せば、生活保護を受ける権利しかありません。野宿者の人権は生活保護を受けるまで留保されていることになります。なぜなら野宿生活は「その人のためにも望ましくない」からです。野宿者は望ましくない存在として扱われており、そういう意味では人権を持つ主体とは思われていないことになります。
「路上の権利」という言葉を私たちは使ってきました。これは端的にいえば「追い出されない権利」であり、自分の意思を尊重されることです。しかし、本当はこんなものは路上でなくても守られなければならないことだし、路上においても守られなければならないことです。「路上の」とつけなければならないことで、すでに一歩後退した位置に立たされています。
あったりなかったりする、物のような人権や権利ではなく、人と人が向き合ったときに実現していくものとして、現実をとらえなおしていかねばなりません。
カンパのお礼
昨年末から9月現在まで、大阪城公園よろず相談のゆうちょ口座宛に、合計21,000円ものご寄付をいただきました。どうもありがとうございます。
「センターの日」をはじめ、ふだんの夜回りや寄り合いなどの活動資金として活用させていただきます。引き続きよろずの活動を見守ってくださると幸いです。