第15回「センターの日」のあらまし
「センターの日」の基本スタイル?
13時から準備をはじめ、14時からの映画上映までにビラを配布することで「センターの日」がすごくうまく回る手応えがありました。ようやく「センターの日」の平常のスタイルができあがったように思えます。
他にも、ヘンゼルとグレーテルが森に小石をまいて目印にしたように、柱柱に点々と「センターの日」のビラを貼ることで、こたつの場所までうまく目を引けるという発見もありました(立ち止まって見入っている姿があるのは同じ柱だったので、センターの中でも目に留まりやすく、足を止めやすい位置の柱があるのかもしれません)。
最初はスピーカーの音量がうるさすぎるだろうかと気になったものの、スクリーンの周りに人の列がぐるっとできると映画鑑賞を共有体験する空間がその音量の範囲で包み込むようにできあがっていました。調理台代わりのキャンプテーブルをいつも通り南側に向け、その右手の柱の陰にスクリーンを設置して映すと、コーヒーと映画がうまく混じり合って居心地のいい空間が生まれていました。
コーヒー
コーヒーは、焙煎を10回したので60杯くらい入れた計算になるとのこと。前回、前々回と同じくらいです。現場で焙煎をして、3時間の枠内で入れられるのはこれが限界のようです。
「お茶はないか。緑茶」という人や「白湯が欲しい」という人もいました。焙煎コーヒーは「センターの日」の目玉でも、焙煎コーヒーを入れる待ち時間が辛いし、コーヒーでなくていいという人もいるなら、映画やおしゃべりのお供として別の簡易飲料を用意してもいいかもしれません。
紙コップがもったいないので、最近はプラスチックやホーローのカップを洗って返してくれるようにお願いしています。一緒に豆を挽いてくれた人も何人かおられました。共同炊事的な参加の糸口となっているように感じました。
古本コーナー
いつも来てくれる人はもちろん、多くの人が立ち寄る人気コーナーになっています。メンバーが声かけをしてくれて来てくださった方や、知り合いからの寄付によって新しい本も追加できました。
常連のかたから「すごく助かってます」と言われました。1日に2冊のペースで読むとのこと。新今宮文庫の本はもう読み飽きてしまったそうです。古本コーナーに人気が集まるというのは、釜ヶ崎でくらす労働者の生活の一端をよく表していると思います。
ビラによるアピール
より多くの人に読んでもらうことに注力して、いつもの緑のビラには踏み込んだことを書きました。もちろん、ビラにどれくらいのリアクションが得られるか、みなさんの胸に響くかはすぐにはわからないものの、古本放出を通してわかった釜ヶ崎の労働者の知識欲の強さ、活字を読み込むどん欲さを見込んで、お話をする切り口にと思い切りました。
この1ヶ月の動向から
仮移転の前倒し
昨年末、西成労働福祉センターとあいりん職安の仮移転日が3月11日に決まったという情報が入ってきました。1月15日発行の西成労働福祉センターの「センターだより」では正式なアナウンスが掲載されていました。このことを「センターの日」で話すと、ある人は「やっぱりそっちにはそういう情報が行ってるんやな!」と驚いていました。
3月11日にセンター3階にあるふたつの行政機関が移転するということは、この日にセンターが閉鎖されるのではと懸念されたものの、3月末まで1階はこれまで通りの相対求人の場として利用することがわかりました。もしかすると3階は閉鎖されてしまうかもしれないと考え、「センターの日」で何かデモンストレーションができないかと話し合いました。
たとえば、閉鎖1ヶ月前になる2月10日に「座り込み」ならぬ「寝込み」をやってみるかとか、18時にシャッターが下りるタイミングで何かアピールをするとか、アイデアを練ったものの、ほどなく3階も3月末までは閉鎖されないことがわかり、この計画は見送りになりました。
二つの取り組み
センター閉鎖を前にして、いくつかの団体が行動を起こしています。昨年から何度かセンターで集会を開いている「センターの未来を提案する行動委員会」は、センター閉鎖後の代替地の交渉を行政相手に進めているようです。毎日座り込みをしている稲垣さんの釜合労、釜ヶ崎公民権運動の人たちは、仮移転工事の不透明な部分を追求したり、センター閉鎖そのものに反対しています。
この二つの取り組みは、西成特区構想によって提起された「あいりん地域まちづくり(検討)会議」に対するスタンスが異なります。前者はまちづくりの議論に前向きに参加し、未来の釜ヶ崎、未来のセンターを労働者のために実現しようという未来志向です。後者はまちづくりの議論の進め方そのものに懐疑的で、実際に生じている現在の排除を問題視して抗議行動に力を入れています。
両者の考え、両者の取り組みは、どちらかがまちがっているものではないし、どちらも必要なものだと思います。たとえば、代替地の交渉とセンター閉鎖反対、どちらも同時に要求して構わないはずです。労働者の今の暮らし、労働者の今後の暮らし、これらは切り分けることのできない問題です。
「まちづくり」の錯覚
分断をもたらしているのはやはり「まちづくり」なのです。労働者の目に触れないところでセンターの建て替え案として勝手なイメージ図が描かれています。仮移転先のセンターでは相対紹介に代わる新システム導入がだいぶ前に決まっているにもかかわらず、労働者向けの説明会も開かれていません。
「まちづくり」すなわち、同じ地域の住民が協力して問題を解決し、未来像を話し合うことを悪いという人はいません。しかし、住民参加は手段に過ぎません。にもかかわらず、「まちづくり」という言葉は一人歩きして、明るい未来が約束されているような錯覚を生み出します。
これは、前回書いた「新しい公共性」と似ています。行政が担うのは公共性の高い領域であり、「行政=公共」と思われていました。しかし、行政機関特有の弊害もあります。その解決手段として企業や住民組織に行政が管理していた領域を部分的に委託するようになり、その管理のあり方が「新しい公共(性)」と呼ばれました。しかし、何が公共性であるかは、管理のあり方以前に議論しなければならないことで、公共性そのものに古いも新しいものありません。
労働者がまちをつくってきた
「不法占拠と都市のコモンズ」という視点について前回書きました。釜ヶ崎自体が都市のコモンズであり、「不法占拠」から発しながら、労働者が奪われた生活の権利を取り戻す場所となっていきました。「不法占拠」とは「都市のコモンズ」であり、最初から奪われている者が権利を取り戻すための「生きながらの階級闘争」なのです。
すなわち、労働者は釜ヶ崎のまちを作ってきた主体であり、鈴木組闘争 、夏祭り、越冬闘争といったさまざまな闘争は労働者による「まちづくり」だったと言ってよいでしょう。このまちで働き、飯を食い、酒を飲んで休んではまた働く。労働者が生きる闘いこそが、このまちを作ってきたはずです。
「まちづくり」の会議の中で、「再チャレンジできるまち」「セーフティネットの集積地」などと「まちづくり計画」に盛り込まれようとしていることは、労働者による「まちづくり」があって初めて出てきたことなのに、当の労働者の参加が顧みられないのはおかしなことです。
「このまちでまちづくりをどうこう言うなら、まずここに来い」と言ってやりましょう。会議など、センターで公開でやればいいのではないでしょうか。労働者の目の前で言えるような議論をしなければなりません。
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