からあげ失敗
年度が変わって新しい仕事が増え、9月過ぎるまで絶え間なくしめきりに追われる予定なので、まったく気持ちの余裕がありません。「ああっ、また怠けてしまった!」としばしば後悔するのですが、冷静にふりかえってみると「怠けた」と言えるのはせいぜい1日くらいのことで、それくらい休んでも怠けたとはいわんやろと思います。
4月の「センターの日」は久しぶりにサービス精神を発揮してからあげをすることにしたのですが、思わぬ大人数になってしまい大変でした。揚げ続けていると油が汚れるのか火が通らなくなるし、待たされるだけ待たされて食べられなかった人も出てしまいました。からあげだし、皿は要らないだろうという考えも甘かったです。
5月はまたキャベツ焼きにしようと思うのですが、予報では雨が降りそうです。
コミュニティとは何か
仕事がら最近、コミュニティとは何かを考えています。コミュニティといえば共同体のことで、共同体といえばどこかの地域なのだろうから、共同性の備わった地域のことをいうように思われます。しかし、特定の場所に縛られず、共通の問題関心によって協力し合える人たちのつながりそのものに注目して、「ネットワーク型のコミュニティ」という考え方もあるようです。
しかし、「共同性の備わったネットワーク」が共同体であるというのは何か変な気がします。共同体というからには、人と人のつながりが実体として存在するはずです。そう考えると、コミュニティとは「共通の問題関心によって協力し合える人たちの集まり」としておけばよいのではないでしょうか。
共同性とは何か
しかし、そうなると「共同性」といっていたのは何だったのかという気がしてきます。「共同性」というのはおそらく前向きな言葉です。コミュニティがよい状態にたもたれていることを念頭に口にされる言葉に違いありませんが、どう「よい」のか表現する使い方はなく、何となく使われる褒め言葉にすぎないように思われます。
コミュニティというのは、共通の課題の解決を目指して協力し合う人たちの集まりですから、協力による課題の解決という結果を、望ましいものとして私たちは評価するのでしょう。そう考えると、共同性というのは理想のようなもので、その中身が何かは一定しないのだと思います。理想を目指さないのであれば、人が集まっていてもコミュニティではないし、共通の課題が抱かれなければやはりコミュニティではありません。
課題はどこにあるのか
課題がない状態、あるいは課題が見えていない状態では、それが本当にコミュニティであるかどうかは定まっていないことになります。
課題はたくさんあるはずです。しかし、それが見えにくい、語りにくい状況もありえます。見えにくく、語りにくいものを形にしていくことが当面の課題と言ってもいいのかもしれません。