大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2022年11月19日(土)第60回「センターの日」——6度目の冬/語られることと語りえないこと

6度目の冬

 「センターの日」に6度目の冬がやってきます。気付けば「センターの日」は60回目で、5周年と来たものです。もはやセンターが閉鎖される前にやっていた期間より、閉鎖されてからやっている期間の方が長くなっていました。

 「釜ヶ崎のことは釜ヶ崎をホームとする人たちが責任を持ってやればいい」と、物分かり良さげなことを口実にまちづくりを遠巻きに見ていましたが、そんなわけにはいかないのではと思い直して「センターの日」を始めました。

 釜ヶ崎のことは釜ヶ崎の人たちでと言うと、地域と住民が一致しているかのように思えますし、だいたい地域と住民というのは一致しているのが当たり前に思えるものです。しかし、釜ヶ崎に関してはここがまちがいのはじまりで、まちづくりでなくても、釜ヶ崎には関わっているし、考える人たちはたくさんいます。

語られることと語りえないこと

 先日、労働者の街ではなくなっても、わけありの人たちが訪れつづければ、釜ヶ崎がなくなることはないという考え方について、意見を求められました。仕事を求めて寄せ場を訪れる人たちは、そもそもわけありの人たちで、その人たちが集まって生み出されたものがあったのだと思います。求人が減ったがゆえの寄せ場の衰退であり、釜ヶ崎の変容なのだから、かつてと同じようには行きません。そう考えると、そのような人たちのよりどころとなりうる場所として存続することに意味があります。センターをただシンボル化することは、問題の先送りでしかないのかもしれません。

 どこでだってみんなで集まって楽しくやりたい。気の合わない人とは適度に距離を置きながら、それでもお互いが知り合って、困っている人にはできることなら助け舟を出したいのです。そんなふうに堂々と生きていたい。きれいごとなど言っていられなくて、否応なくそういう生き方を迫られているだけなのかもしれません。しかし、それでも、そんな生き方がまちがっているはずがありません。そんな生き方をする人を孤立させてはいけません。私たちは守っているものに守られていることもあれば、守られているものが守っていることもまたあるのだと思います。

 釜ヶ崎らしさについて、誰が何を語ろうと問題ではないのかもしれません。それだけの思い入れが無数にあることは力になりこそすれ、無用なものではないでしょう。らしさを語ることのなかにそのものの実体は存在しないし、そんな理想が存在するとすれば、一人一人の思惑など、飛びこえて行くに決まっています。それでも、そんな未来へと連なる現在の依代となれるのは常に私たち一人一人です。「センターの日」もそのような依代のひとつでありたいと思います。