大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2023年11月9日(木)夜回り・都市もまた自然の一部

 先週は11月だというのに連日暑い日が続きました。今週末はまた冷えるようです。いいかげん来月は12月と考えると、さすがにもう暑い日は来ないとは思いますが、今年の冬はどうなるのでしょう。

 ほかに話題と言えば、阪神タイガースの優勝や各地での熊の被害でしょうか。冬眠前に栄養を蓄えようと甘いものを求めて里に降りてくる熊が増えているようです。大阪では関係ないかと思いきや、茨木市でも熊の目撃情報があるようです。

 大阪城公園に熊は出ないでしょうが、渡り鳥が羽を休めに寄るところであることが知られています。都市に自然はないように思われがちですが、都市もまた自然の一部なのだということを鳥たちは教えてくれます。熊たちにとってみれば、人間が住むところも行動範囲に含みうるし、自然も都市もないのかもしれません。

 鳥も熊も、生きていくために必要なことをしているだけなのだとしたら、人もまた生きていくために必要なことをしなければなりません。そこが路上でも公園でも人の生きる場所に違いはありません。

 今月19日は久しぶりに寄り合いを予定しています。雨が降らないことを祈ります。

2023年10月26日(木)夜回り・シェアリングエコノミーが目指すもの

 万博に合わせて大阪でライドシェアを導入しようという話が出ています。どうやらヒッチハイクを有料で仲介するようなことをスマートフォンのアプリを使ってやりたいようです。テクノロジーを使ってなんでもお金に変えようという流れの一つなのでしょうが、節約しているつもりで身体の芯まで搾り取られようとしているような気持ち悪さがあります。

 経済を循環させるのは生活を豊かにする手段であるはずなのに、ここでは主客が逆になっています。たしかにシェアリングエコノミーがこれまでにない価値を生み出しているところはあるのでしょう。しかし、価値を生み出しているのは「シェアリング」の方で、「エコノミー」がくっつくことで、それが新しいものだと錯覚させられているだけなのではないでしょうか。

 持っている人が限られたもの、あるいは余裕のあるものを誰かに貸してあげたり、共有したりすることはそれ自体価値を生み出しているはずです。そのような関係を作り上げること、あるいは関係が積み重ねられたところにそのような価値が備わるのが本来であって、それを無理やり作らされ、親切ごかしに値段をつけられ、勝手に売り物にされているような気持ち悪さを感じます。

 極端なたとえ話かもしれませんが、そのうち「野宿してもいい場所を任意で登録し、それをシェアリングする画期的な仕組み」なんてものが出てくるかもしれません。しかし、今の社会が向かっているのはそのような方向です。

2023年10月21日(土)第70回「センターの日」——楽しもうとしてしまう本能

楽しもうとしてしまう本能

 9月の「センターの日」はお好み焼きとかき氷を楽しみました。今年はかき氷はこの1回しかできませんでしたが、とても盛り上がりました。ゆったりお好み焼きを作って、かき氷はお好み焼きが切れてからぼちぼちやろうと思っていたのですが、ひっきりなしに希望があり、おおわらわでした。最終的に玉出で買った4袋ものバラ氷を使い切りました。久しぶりに甘い香りの焙煎コーヒーもいただきました。

 8月は予告なしで中止にしたところ、「30分待ってた」「みんな待っとったで! 5人くらい」とお叱りを受けました。しかし、楽しみにしていただいていたのだと知れて、うれしかったです。前回の報告で「センターの日」でやってきたことをまとめていくと書いたのですが、まあ別にそんなこと急いでしなくていいかという気持ちになりました。

 四天王寺では毎月21日と22日に縁日が開かれています。食べ物の店もあれば、乾物を売っている店もあります。骨董品やどこかの売れ残りのような品物を並べた店もあり、隅っこの方では本当にガラクタをかき集めて並べているような店もあります。店舗で見ても見過ごしてしまうようなものも、こうして並んでいると魅力的に感じられます。

 この風景を見ていて、かつての釜ヶ崎のドロボー市を思い出しました。あの頃、路上には屋台が並んでいました。釜ヶ崎は、いろんな人が自分の手元にあるものを持ち寄って食い扶持を稼ごうというアイデアがごちゃ混ぜになって、固有の魅力を生み出していたのだと思います。

 「センターの日」って何なのだろうという答えの一つとして、これは縁日の屋台や出店のようなものなのだなと思いました。そして、釜ヶ崎の街は、街自体が毎日どこか縁日のような魅力を宿らせていたのでしょう。その中でも、センターは四天王寺の境内のように周囲から切り分けられた聖域だったというわけです。

 ただ生きているだけでは面白くない。どんなに苦しい状況だろうと、楽しみがなければやっていられない。生きている以上、楽しもうとしてしまうのが人間なのだと思います。人間の本能であるともいうべきその楽しみを、この街は守っていけるのでしょうか。

2023年10月12日(木)夜回り・何度となくお会いしてお話しできる機会

 蚊取り線香の季節が終わり、足早にカイロの季節に切り替わりつつあります。ドラッグストアを定期的にのぞいていると、本当に秋がなくなってしまったのかと思わされますが、そもそも秋を象徴するアイテムというものもないし、商品の入れ替えが早まっているだけなのかもしれません。

 10/8は寄り合いの予定だったのですが、雨の予報だったので中止にさせていただきました。天気予報のアプリを見ると雨雲が帯状に広がっていました。しかし、本降りの雨は翌月曜日にかかっていたようです。

 前回の夜回りでは、行政の職員から「生活保護受けてもアルミ缶集めたらいいと、あいつらはバカなことを言う」というお話を聞きました。野宿生活の中で生きるために必死でしている仕事を、まるで楽しくてやっているかのように言われたくないというわけです。

 たしかにその通りだなと思うとともに、生きるためにやっていることは、仕方なしであれ、意味を感じられることなのだと思います。そうなると、生活保護の暮らしでは何に意味を見い出すことができるのでしょう。それならまだがんばれるうちはと野宿生活にとどまる人もいるのかもしれません。

 また、話しかけて「バカにするな!」と怒られたのも前回のことでした。誰かがまちがったことをすることがあったとしても、自分たちが正しいことをしているとは限りません。何度となくお会いしてお話できる機会があることを願っています。

2023年9月28日(木)夜回り・露店、出店の愉しさ

 ようやく空気や空模様が変わってきたのを感じるようになりました。一番気が早いのはハロウィン商戦で、まだ暑い時期からオレンジのかぼちゃが商店街に目立つようになりました。ドラッグストアにはもうカイロが並んでいます。100円ショップでは、起毛の暖かそうな靴下や手袋が吊り下げられているのを見かけました。

 四天王寺では毎月21日、22日は縁日で、境内にはたくさんの出店があります。どこかの売れ残りを集めたような店もあれば、乾物を売る店、骨董品を並べた店もあれば、端っこにはガラクタをかき集めたようなおかしな店もありました。そのような風景を見ていると、ふとありし日の釜ヶ崎の露店(ドロボー市)を彷彿とさせられました。なるほど、これは露店的な愉しさなのだと思いました。

 固定された店舗と違って、その日だけ現れる出店で売られているものは、個性にあふれていて、つい足を止めて見てしまいます。これはいくらだろうと値札のついていない商品を見ていて、値段なんてあってないようなものなのだと気づかされます。こういう自由さが日常的にあったのが、釜ヶ崎の街だし、今もその可能性が生きているのだと思います。

 公園にテント村のある風景も、思えば単なる窮状ではなく、苦しいなかにも愉しみを見出して素朴に暮らそうとする姿が現れたものだったのかもしれません。イベント会場にされ、おしゃれなカフェのできた公園はそんな暮らしの愉しみ方を知らない人たちが作り出した遊園地にすぎません。よろずの寄り合いや「センターの日」はそんな愉しさに惹かれています。

2023年9月16日(土)第69回「センターの日」——6年のふりかえり

夏の「センターの日」のふりかえり

 2023年8月の「センターの日」は中止にさせていただきました。理由は夏バテのようなものでしょうか。何かにバテました。

 中止にしたら中止にしたで公衆電話から着信があり、「今日やってないんですか? 渡したいものがあるから駅まで行きます」などと連絡をいただき、クワガタムシを預かりました(なんのこっちゃ)。

 7月の「センターの日」では例年通りかき氷にしようとしたのですが、「わしが買ってくるからスイカにしよう!」といわれたのでスイカにしました。しかし、これは失敗でした。また、フードバンクから大量にいただいた食材をうまく活かせないかとミートスパゲッティに手を加えてみたのですが、これも失敗でした。

 これまでの経験で分かっていたことなのですが、「作りながら食べる」という形でないと、なんの盛り上がりもなく用意されたものを食べ尽くして終わりになってしまうのです。

 「センターの日」には「センターの日」の勘所があり、分かっているつもりでたまに外してしまいます。しかし、たまに外してしまうことも、もしかすると必要な要素なのかもしれません。そもそも大したことをやっているわけでもありません。

6年のふりかえり

 2017年11月にはじめた「センターの日」も、そろそろ6年が経とうとしています。はじめたきっかけはセンター閉鎖、建て替えのスケジュールが切られたことでした。現地で建て替えられるのであっても、今あるセンターが解体されることは大事件です。しかし、これの何がどう大事件なのか、実は誰も語れないまま、スケジュール通りにことが進んでしまうのが大きな問題でした。

 そこで、この語られざる大事件を語れるようにするためにはじめられたのが「センターの日」でした。「センターの日」では、立ち寄ってくれた人たちとおしゃべりし、また、3階で休んでいる人たちから聞き取りもしました。しかし、聞き取り調査でなければ、炊き出しでもなし。別に居場所づくりでもありません。確かにそこにあるのに誰もうまく語れない、とらえられないものをいろんな形で知ろうとする試みが「センターの日」です。みなさんにそのような意識はなかったもしても、その試みに参加していただいてきたわけです。

 では、そうやって「センターの日」をやってきて、何がどんな形でとらえられてきたのでしょうか。その形はさまざまです。そして、それらは「センターの日」の外で表現されるので、「センターの日」だけを見ていても知ることはできません。

 「センターの日」をやったからこそ言えるようになったこと、理解できたこと、取り組めたことがたくさんありました。それらを一つにまとめて社会に問わなければならない時が来たように思います。いや、すでに遅すぎるのかもしれません。あるいは、そんなものをまとめる必要はないのかもしれません。しかし、まとめて悪いわけでもないはずです。どうせ私たちは失敗するし、まちがうでしょう。

 不完全な私たちがまちがいもなく正しい道を歩めるはずがありません。まちがいのない正しい道も私たちにはありえないのです。

第69回「センターの日」のお知らせ

「センターの日」とは

 労働者の街として知られる大阪の釜ヶ崎は今、大きな再開発の波にさらされています。2012年に始まった西成特区構想による「まちづくり」も進められています。貧困層の追い出しをともなうジェントリフィケーションであるとの批判もあります。

 地域住民と行政が協同して地域を良くしようと努力しているとの主張がある一方、これまでと変わらない強制排除が幾度となく繰り返されています。真実はいったいどこにあるのでしょうか?

 労働者の街である釜ヶ崎に、あいりん総合センターという施設があります。センターは釜ヶ崎の中核とも言える場所です。このセンターの建て替え、閉鎖、仮移転がまちづくりの会議の中で決定しました。

 釜ヶ崎で何が起きているのか、私たちは何かできることはないのか、私たちは何を知るべきなのか。一から考えるために、私たちは2017年11月から月に一回、第三土曜日に釜ヶ崎のセンターで労働者の声を聞く取り組み、「センターの日」をはじめました。

場所・日時のご案内

 JR新今宮駅西口から地上に出て、国道の向かいのあいりん総合センター北西側の団結小屋周辺か高架下の駐輪場付近で、2023年9月16日(土)13時から16時に実施します(基本的に毎月第三土曜日)。

これまでの「センターの日」

 これまでの報告はこちらです。

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回(中止) 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56・57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回