大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2023年12月7日(木)夜回り・肯定的に受け入れることに是非はなし

 前回初めてお話しした方から、よろずの名前は聞いたことがあると言われました。よろずと関係の長い人たちがあちこちで話題にしてくれているらしいことを知りました。たいした支援もできませんが、気軽に相談していただけるとうれしいです。

 夜回りをしているのはよろずだけではないし、大阪城公園界隈だけではありません。また、野宿者にかかわるのは民間の支援者だけでなく、行政関係者や民間事業者などさまざまでしょう。野宿しているみなさんは、その場所ごとにその場所に紐づけられた関係を無数にお持ちだと思います。

 決して楽な暮らしではないと思いますが、路上や公園で出会いがあり、関係を作っていくことが、実利一辺倒に変えられつつある大都市の公共空間を私たちの手に取り戻すことなのだと思います。たとえ強いられたものであっても、そこに生きる人たちの存在をまず肯定的に受け入れることに是非はないはずです。

 12/29(金)は年越しそばを予定しています。市民の森でお会いしましょう。

2023年11月23日(木)夜回り・金額に現れないコストと儲け

 このあいだの日曜日は、前日の荒天から一転して、穏やかな天候のもとで寄り合いを行うことができました。久しぶりに顔を出してくれた人同士がまた顔を合わせ、雑談に花が咲いていました。

 釜ヶ崎にある三徳ケアセンターやシェルターを利用している人同士の情報交換を興味深く拝聴しました。お湯を使えるので、夜回りや寄り合いでお渡ししたアルファ米が役に立ったと聞いて安心しました。最近はアルファ米もストックが尽きて、チョコレートを配っていますが、どんなものがあると助かるのかもお聞きしてみたいです。

 最近の銭湯の値上げについて「520円は違和感がある」という話もありました。「490円だと、まだ500円の手前で安くしてくれている感じがあったけど、520円になると……」というわけです。こないだ1,000円札を出すと、「20円ない?」と番台のおばちゃんに問われました。お釣りの受け渡しにも金額に現れないコストが発生していることになります。

 来月はもう恒例の年越しそばになります。集まって食べれば金額に現れない儲けもあろうというものです。また日程をお知らせします。

2023年11月9日(木)夜回り・都市もまた自然の一部

 先週は11月だというのに連日暑い日が続きました。今週末はまた冷えるようです。いいかげん来月は12月と考えると、さすがにもう暑い日は来ないとは思いますが、今年の冬はどうなるのでしょう。

 ほかに話題と言えば、阪神タイガースの優勝や各地での熊の被害でしょうか。冬眠前に栄養を蓄えようと甘いものを求めて里に降りてくる熊が増えているようです。大阪では関係ないかと思いきや、茨木市でも熊の目撃情報があるようです。

 大阪城公園に熊は出ないでしょうが、渡り鳥が羽を休めに寄るところであることが知られています。都市に自然はないように思われがちですが、都市もまた自然の一部なのだということを鳥たちは教えてくれます。熊たちにとってみれば、人間が住むところも行動範囲に含みうるし、自然も都市もないのかもしれません。

 鳥も熊も、生きていくために必要なことをしているだけなのだとしたら、人もまた生きていくために必要なことをしなければなりません。そこが路上でも公園でも人の生きる場所に違いはありません。

 今月19日は久しぶりに寄り合いを予定しています。雨が降らないことを祈ります。

2023年10月26日(木)夜回り・シェアリングエコノミーが目指すもの

 万博に合わせて大阪でライドシェアを導入しようという話が出ています。どうやらヒッチハイクを有料で仲介するようなことをスマートフォンのアプリを使ってやりたいようです。テクノロジーを使ってなんでもお金に変えようという流れの一つなのでしょうが、節約しているつもりで身体の芯まで搾り取られようとしているような気持ち悪さがあります。

 経済を循環させるのは生活を豊かにする手段であるはずなのに、ここでは主客が逆になっています。たしかにシェアリングエコノミーがこれまでにない価値を生み出しているところはあるのでしょう。しかし、価値を生み出しているのは「シェアリング」の方で、「エコノミー」がくっつくことで、それが新しいものだと錯覚させられているだけなのではないでしょうか。

 持っている人が限られたもの、あるいは余裕のあるものを誰かに貸してあげたり、共有したりすることはそれ自体価値を生み出しているはずです。そのような関係を作り上げること、あるいは関係が積み重ねられたところにそのような価値が備わるのが本来であって、それを無理やり作らされ、親切ごかしに値段をつけられ、勝手に売り物にされているような気持ち悪さを感じます。

 極端なたとえ話かもしれませんが、そのうち「野宿してもいい場所を任意で登録し、それをシェアリングする画期的な仕組み」なんてものが出てくるかもしれません。しかし、今の社会が向かっているのはそのような方向です。

2023年10月21日(土)第70回「センターの日」——楽しもうとしてしまう本能

楽しもうとしてしまう本能

 9月の「センターの日」はお好み焼きとかき氷を楽しみました。今年はかき氷はこの1回しかできませんでしたが、とても盛り上がりました。ゆったりお好み焼きを作って、かき氷はお好み焼きが切れてからぼちぼちやろうと思っていたのですが、ひっきりなしに希望があり、おおわらわでした。最終的に玉出で買った4袋ものバラ氷を使い切りました。久しぶりに甘い香りの焙煎コーヒーもいただきました。

 8月は予告なしで中止にしたところ、「30分待ってた」「みんな待っとったで! 5人くらい」とお叱りを受けました。しかし、楽しみにしていただいていたのだと知れて、うれしかったです。前回の報告で「センターの日」でやってきたことをまとめていくと書いたのですが、まあ別にそんなこと急いでしなくていいかという気持ちになりました。

 四天王寺では毎月21日と22日に縁日が開かれています。食べ物の店もあれば、乾物を売っている店もあります。骨董品やどこかの売れ残りのような品物を並べた店もあり、隅っこの方では本当にガラクタをかき集めて並べているような店もあります。店舗で見ても見過ごしてしまうようなものも、こうして並んでいると魅力的に感じられます。

 この風景を見ていて、かつての釜ヶ崎のドロボー市を思い出しました。あの頃、路上には屋台が並んでいました。釜ヶ崎は、いろんな人が自分の手元にあるものを持ち寄って食い扶持を稼ごうというアイデアがごちゃ混ぜになって、固有の魅力を生み出していたのだと思います。

 「センターの日」って何なのだろうという答えの一つとして、これは縁日の屋台や出店のようなものなのだなと思いました。そして、釜ヶ崎の街は、街自体が毎日どこか縁日のような魅力を宿らせていたのでしょう。その中でも、センターは四天王寺の境内のように周囲から切り分けられた聖域だったというわけです。

 ただ生きているだけでは面白くない。どんなに苦しい状況だろうと、楽しみがなければやっていられない。生きている以上、楽しもうとしてしまうのが人間なのだと思います。人間の本能であるともいうべきその楽しみを、この街は守っていけるのでしょうか。

2023年10月12日(木)夜回り・何度となくお会いしてお話しできる機会

 蚊取り線香の季節が終わり、足早にカイロの季節に切り替わりつつあります。ドラッグストアを定期的にのぞいていると、本当に秋がなくなってしまったのかと思わされますが、そもそも秋を象徴するアイテムというものもないし、商品の入れ替えが早まっているだけなのかもしれません。

 10/8は寄り合いの予定だったのですが、雨の予報だったので中止にさせていただきました。天気予報のアプリを見ると雨雲が帯状に広がっていました。しかし、本降りの雨は翌月曜日にかかっていたようです。

 前回の夜回りでは、行政の職員から「生活保護受けてもアルミ缶集めたらいいと、あいつらはバカなことを言う」というお話を聞きました。野宿生活の中で生きるために必死でしている仕事を、まるで楽しくてやっているかのように言われたくないというわけです。

 たしかにその通りだなと思うとともに、生きるためにやっていることは、仕方なしであれ、意味を感じられることなのだと思います。そうなると、生活保護の暮らしでは何に意味を見い出すことができるのでしょう。それならまだがんばれるうちはと野宿生活にとどまる人もいるのかもしれません。

 また、話しかけて「バカにするな!」と怒られたのも前回のことでした。誰かがまちがったことをすることがあったとしても、自分たちが正しいことをしているとは限りません。何度となくお会いしてお話できる機会があることを願っています。

2023年9月28日(木)夜回り・露店、出店の愉しさ

 ようやく空気や空模様が変わってきたのを感じるようになりました。一番気が早いのはハロウィン商戦で、まだ暑い時期からオレンジのかぼちゃが商店街に目立つようになりました。ドラッグストアにはもうカイロが並んでいます。100円ショップでは、起毛の暖かそうな靴下や手袋が吊り下げられているのを見かけました。

 四天王寺では毎月21日、22日は縁日で、境内にはたくさんの出店があります。どこかの売れ残りを集めたような店もあれば、乾物を売る店、骨董品を並べた店もあれば、端っこにはガラクタをかき集めたようなおかしな店もありました。そのような風景を見ていると、ふとありし日の釜ヶ崎の露店(ドロボー市)を彷彿とさせられました。なるほど、これは露店的な愉しさなのだと思いました。

 固定された店舗と違って、その日だけ現れる出店で売られているものは、個性にあふれていて、つい足を止めて見てしまいます。これはいくらだろうと値札のついていない商品を見ていて、値段なんてあってないようなものなのだと気づかされます。こういう自由さが日常的にあったのが、釜ヶ崎の街だし、今もその可能性が生きているのだと思います。

 公園にテント村のある風景も、思えば単なる窮状ではなく、苦しいなかにも愉しみを見出して素朴に暮らそうとする姿が現れたものだったのかもしれません。イベント会場にされ、おしゃれなカフェのできた公園はそんな暮らしの愉しみ方を知らない人たちが作り出した遊園地にすぎません。よろずの寄り合いや「センターの日」はそんな愉しさに惹かれています。