なんかよく宗教とか道徳のお話で、「やってあげてると思うな。させてもらってると思え」みたいな説教があります。そう言われると、「けっ」と思うものですが、まあそういう逆説もどっかにはあるのかもしれません。
人はどこかで「いいことをしたい」と思っているもので、その機会が得られると実はうれしいのです。しかし、それが当たり前になってくるとうれしくないので、「いいことをする」チャンスは、たまに、予期しないくらいのタイミングで起こってくれればいいというのが本音です。
では、「いいことをする」頻度が上がったり、持続するのはどんな場合でしょう。思うにそれは、「いいことをする」機会を分けあっている場合です。「必ず自分がしなければならない」と感じると、途端に面倒くさくなります。「今は困るなー」という時に、誰かにふる余地があると、負担感はぐっと減ります。そう考えると善意とはずいぶん利己的なものですが、人間はそんな虫のいいことを考えてまで「いいことがしたい」のです。
しかし、「困っている」相手がいなければ、「いいこと」はできません。人が何かを「してあげる」時には、「させてあげてる」部分もあるのだと思います。
そんなことを言うと、「人が親切にしているのをいいことに、調子に乗りやがって」と怒り出す人がいるかもしれません。しかし、善意の陰にある利己的な分くらいはこっちも図々しいことを考えたって許されるのではないでしょうか。
そうやっていると、「いいこと」云々は別にして、お互いが「必要なことをやっている」ふうにもなっていきます。私たちがそこで何をやっているのかの方が、ずっと大切なのだと思います。