大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2019年12月21日(土)第25回「センターの日」──誰が労働者の言葉を語るのか

2019年12月21日(土)の「センターの日」より

 12月の「センターの日」は、薄曇りだったものの、風もなくいくらか暖かい空の下で行いました。

 11月に引き続き、炭火を用意しておもちやウィンナーを焼きました。前回の七輪からバージョンアップして、バーベキューコンロを用いました。
武器ではなく命の水を──医師・中村哲アフガニスタン

 映像は、いつもの映画はお休みにして、アフガニスタンで用水路工事に携わって、12月頭に現地で殺害された医師の中村哲さんを取り上げたドキュメンタリーを観ました。

 最初は医療支援のためにアフガニスタンを訪れた中村哲さんは、百年に一度の大干ばつと水不足にみまわれたアフガニスタンの現状を目の当たりにし、白衣を脱いで用水路工事計画に着手しました。現地の人びとの仕事も作り出しながら、十年以上の歳月をかけて延長された用水路は砂漠を緑野に変え、多くの人びとの命を救いました。中村さんの次の言葉が大変印象的でした。

 「これは平和運動ではない、医療の延長なんですよ。医療の延長ということは、どれだけの人間が助かるかということ。その中で結果として争い事が少ない、治安が良い、麻薬が少ないということが言えるわけで、これが平和への一つの道であるという主張をしたことは少ないと思います。ただ戦をしている暇はないんですよと。戦をするとこういう状態がますます悪くなるんですよと。それにはやっぱり平和なんですよ。それは結果として得られた平和であって、平和を目的に我々はしているわけではない」

「昼回り」から

 いつものように13時前から、ビラをお配りしながらお話をうかがいました。中村哲さんについて反応する人が多く、「こういう人をお札にせんとあかん。福沢諭吉は勉強はよくしたんだろうけど、もうええやろ。野口英世は千円札じゃなくて一万円札にしてもいいくらいや。実際に行動した人を選ばんといかん」と言っている人もいました。

 11月に風邪をひいていると言っていた人はまだ治りきらず、「平行線ですわ!」と言っていました。今年の冬は暖かいとはいっても、野宿しながら病気を治すのは大変なことだと思います。

 萩の森予定地にある交流スペースのテントでも少しお声かけしました。みなさん将棋に熱中されているので、いつもためらいがあります。また、センター建て替え反対/賛成の議論をふっかけられることもあるので、緊張もあります。このような対立にとらわれずに話ができる場所が必要だと思います。

炭火焼きについて

 この日、よそであったもちつき大会で分けてもらったというつきたてのおもちがあったので、炭火で焼いて食べました。焼き物をしていて面白いのは、必ず火の面倒をみてくれる人が現れることです。最終的には2、3人がつききりで焼け具合をみてくださって、とても助かりました。

 アルミホイルに包んで直火に埋めていた焼き芋は、放置しすぎて少し焦げてしまいましたが、中のほうは飴色に仕上がっていました。「焼き芋はこの食べ方が一番うまいな!」と盛り上がりました。余ったぶんは、新聞紙に包んで近くの人たちにお配りしました。今度やるときには少し多めに仕込んで、もう少しおすそ分けしたいと思います。食べ頃に冷めるまではカイロ代わりにもなる焼き芋は冬場に最適です。

 1月の「センターの日」ではお汁粉をつくりたいと考えています。

誰が労働者の言葉を語るのか

 3年目を迎えた「センターの日」は、センターの労働者のみなさんの声を聞きたいと思ってはじめたものでした。月一回の取り組みを続ける中で、センターの労働者は二重に声を奪われていると感じるようになりました。これはまず、西成特区構想のまちづくりの会議に参加できないということ、そして、センターが無くなれば困るとストレートに言葉にできない、自分たちの訴えが聞き入れられるとは思えなくなっているのではないかということです。

 これは「センターの日」をはじめる前からうっすらとは感じていたことで、行政や学者のする「聞き取り調査」のような形では、一方的なセンターの閉鎖、建て替えがなぜ困るのかを理解できないだろうという予感でした。しかし、私たちも労働者の声を代弁できるなどとは思っていません。一番大切なのは、どんな声であれ、きちんと受け止められなければならないということだからです。

 それでも、「センターの日」の時間をセンターという場でみなさんとともに過ごす中で、私たち自身が考えることはできると思っています。「センターの日」をやろうと集まってきたメンバーも、いろんな立場、いろんな考えを持っています。その上で何もせずに見過ごせないと思っているところは共通しているはずです。違った立場や考えにある人たちが、同じ場所、同じ時間に経験すること、知ることから、自分自身の声を見つけていく必要があると思います。