日頃、私たちの活動に関心をお寄せいただいている皆様。よろずが普段からお世話になっているフリースペース・オシテルヤで年越しそばがふるまわれます。どちら様もお気軽にお立ち寄りください。
2016年12月11日(日)名古屋・大阪城公園交流ソフトボール大会
名古屋チームをお迎えして開催した大阪城公園ソフトボール大会、好天のもと、多数のご参加をいただいて、とてもいい交流の機会が得られました。ご参加、ご協力いただいた皆様、どうもありがとうございました。
今回の大会では、いろんな方がいろんな知り合いに声をかけてくださり、40名余りの参加がありました。初めてお会いする方もたくさんおられました。大阪城公園のいつものみんなからも声かけしてくれたらしく、ふだん夜回りで会うだけの方も顔を出してくれました。入院を契機に生活保護を受けるようになった仲間も参加してくれました。
みんなの寝床になる東屋の閉鎖が近づく状況で、何か掴まなければと焦る気持ちとともに越冬とソフトボールを企画したのが一年前でした。しかし、結局、2月末の東屋閉鎖に何一つ有効な策を立てられず、私たちは自分たちの無力さを突きつけられました。
ふだん支援者を気取っておいて、野宿の仲間にとって最大の危機である排除に対して、何の役にも立たなかった私たちのことを、一緒に何かをやっていく相手だと思ってもらえるのか。当事者の厚意に甘えて、チャンスをもらうような気持ちでした。
4月の花見とソフトボール大会やそうめん大会といった節目のイベント、隔週の夜回りと月1回の寄り合いに加え、これまで考えたこともなかった哲学読書会も始めました。哲学読書会では、参加者それぞれの力量で素直な意見を出しながら議論することで、一人で読んでいても得られないものが生まれていると思います。
支援する/されるという非対称的な関係を消し去ることはできません。いかに工夫しても、支援される側は「してもらってる」と受け取らざるを得ない場面があるし、支援する側も、通常の活動がしんどく思える時もあり、負担感の中で支援「している」ことを否応無く意識してしまう時もあります。
今回のソフトボール大会は、一人一人が身近な知り合いに働きかけてくれていて、こんな楽しい時間が得られたのは予想外のことでした。「支援する/されるというのは何か違う」という感覚が、確かめ合うでもなく一致して新しいものを生み出す力になったかのように思えます。
一人一人が当たり前に自分の人生を歩めるのが一番大切なこと。一人一人が自分の人生を歩むためにはお互い助け合わなければならない。「私が私の人生を歩むためにはあなたもいてくれなくては困る」と思えれば、つまらない垣根に遮られることもなくなるのかもしれないと思えた一日でした。
大会開催のために多額のカンパありがとうございました
収入
カンパ収入京都 6500円
カンパ収入東京 7000円
カンパ収入大阪 10000円
大阪城公園よろず相談負担 3000円
計26500円
支出
弁当材料 5256円
トン汁 1768円
交流会 7150円
球場代 3000円
駐車場代 4100円
名古屋交通費カンパ 5000円
計26274円
2016年11月27日(日)第6回哲学読書会 プラトン『プロタゴラス─―ソフィストたち』(岩波文庫、1988年)
前回から少し間が空いた哲学読書会、今回もまた雨でした。プラトンの『プロタゴラス』を読みました。
哲学の古典中の古典というイメージのあるギリシャ哲学、もちろんソクラテスも登場します。登場します、というより主役はソクラテスといった方が良くて、ソクラテスがプロタゴラスと議論した経過を語るという構成になっています。
プロタゴラスがどんな人物なのかわからずに読むので、両者のやり取りは少しちぐはぐなものに思えました。短い問いを矢継ぎ早に出すソクラテスに、プロタゴラスがいつのまにか外堀を埋められていきます。タイトルにもなっているはずのプロタゴラスが全く大した人物に思えないのですが、プラトンがソクラテスを語り部にしてつづった物語なのだから、ソクラテス優位に読めるのは当たり前なのかもしれません。
プラトンが「対話篇」という形式をとって、ソクラテスという人物をひいきにしてこのような構成の本を書いたのはどのような背景があるのだろうかと気になりました。プロタゴラスも追いつめられてばかりではなく、うまく言い返す場面もあります。紀元前5世紀にはすでにこんな議論が行われていて、それを本にまとめる人がいて現代に伝わっていると思うと、驚きを感じます。しかし、それと同時に、人間の知的な能力そのものは大して変わっていないのだなと気付かされます。歴史の中で知識が道具として洗練されてきたのは確かだけれども、その道具を扱う人間の能力の方は変わっていない、進化しているわけではないようです。
今回はニーチェの時以上にKさんの解説が勉強になり、理解が進んだところが多くありました。当時の都市国家のあり方と関連させて考えると理解が深まります。ギリシャの都市国家の雰囲気が分かるところも面白い本でした。
このままもう少しギリシャ哲学を深めて、プラトンの弟子であるアリストテレスを読もうかという話もあったのですが、アリストテレスは短いものがないということで、もうしばらくは短いものを読んで大作に挑むことに決めました。次回は年明けにデカルトの『方法序説』(岩波文庫)を読みます。
2016年11月6日(日)寄り合い
さすがに寒さが増してきており、曇り空の下、参加者はみんな余分に着込んできているふうでした。とはいえ、この数日の中ではまだ寒さはマシでした。
今日の持ち寄りご飯も大変充実していました。Mさんは「やっぱりよろずレシピ集を作らなあかんな」と何かを燃やしていました。
いよいよソフトボール大会も来月に迫っており、前日・当日の段取り、弁当の用意や参加人数と試合の組み合わせなど話し合いました。
来月の寄り合いはこのソフトボール大会で兼ねることになり、そのあとは越冬を残すのみとなります。
今日は「ガイスター」というボードゲームを楽しみました。路上文庫や将棋、キャッチボールもいつも通り行いました。
2016 野宿者交流ソフトボール大会(仮称)へのカンパのお願い
私たち、大阪城公園よろず相談は、大阪城公園を中心に野宿・露宿している方や生活保護受給者と一緒に活動をしている団体です。
大阪城公園よろず相談の活動は2002年頃から始まりました。活動は夜回りや福祉行動、病院訪問など多岐にわたりますが、寄り合いや共同炊事といった支援者/野宿生活者の垣根を越えての活動・交流もさかんに行ってきました。
いわゆる「ホームレス問題」は1990年代から顕著になってきました。2002年に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」という 10 年間の時限法 (2017 年までの 5 年間延長)が成立し、2000年代後半から「行政代執行」に よるテント小屋の強制立ち退きが各大都市の公園で何度も行われてきました。
現在、公園をめぐる状況は大きく変化しています。大阪市内、また全国にも、都市公園から野宿者を大規模に追い出した後、民間企業にその空間の利用する 権利を譲り渡し、金儲け優先の公園運営を推し進めています。
抗議の声すらあげられないような小規模な追い出しがあちこちで行われています。大阪城公園も例外ではなく、去年(2015 年)の冬、唯一雨のしのげる東屋が閉鎖され、野宿生活者が締め出されました。
今年 2016 年の正月、現場の閉塞感を打開する取り組みとして、みんなそろって元気をだそうとソフトボール大会を始めました。
さまざまな取り組みを行っていながら、普段は横のつながりが少ない中で、こういった集まりは団体間の交流もはかれて日頃の悩みや不安なども話し合ったりできます。たわいのない会話をしたりしてお互い元気づけられます。このソフトボール大会を楽しみにしている方も多いです。
今回、再び催すソフトボール大会では関西だけでなく、名古屋からの団体も参加予定です。移動費や当日の昼食用の食材代にお茶菓子代、運搬用の車の燃料費、でグラウンド使用料などの費用を捻出しなければなりません。
ソフトボール大会へのカンパをお願いします。そして当日一緒にソフトボールを楽しみませんか。
ソフトボール大会は 2016 年 12 月 11 日に大阪城公園野球場にて開催予定です。よろしくお願いいたします。
2016年10月16日 大阪城公園よろず相談・大阪キタ越冬実・長居公園仲間の会
カンパ窓口はこちらになります
2016年10月16日(日)寄り合い
秋晴れというにはまだ暑いくらいの陽気で、休日はいつも大勢の人で賑わう大阪城公園ですが、仕出しのお弁当を広げてピクニックに来ているらしい一団の姿もありました。
もうさすがに蚊取り線香はいらないだろうと持ってこなかったら、ものすごい蚊で、森ノ宮駅の高架下のドラッグストアまで急ぎ蚊取り線香を買いに走りました。今年はこれで最後だろうと4巻大盤振る舞いしました。
この日は最近持ち寄りご飯で参加してくれるUさんがご両親を連れて来て下さいました。ごはんを食べた後はみんなで自己紹介して歓談することとなりました。
初の試みとして『はんか通骨董市』というカードゲームを持参したところ、子どもたちが食いついてきてくれて、その一団はとても盛り上がりました。そのほか、いつもの将棋チーム、キャッチボールチームと思い思いに過ごしました。また、12月のソフトボール大会に向けた打ち合わせも行いました。
2016年10月9日(日)第5回哲学読書会『ツァラトゥストラかく語りき』4
『ツァラトゥストラかく語りき』の最終回、第四部について話しました。最後とあって、これまでのツァラトゥストラの言葉、ツァラトゥストラのやってきたことについて各々の思うところを出し合いました。時代の制約はあるにしても、ニーチェの念頭にある読者は階層の高い人々であり、当時の社会的弱者まで視野に入れた思想ではないのではないか、共感する点はあるけれどもこの一言があるためにどうしても受け入れられない──というふうに、かなり深いところまで踏み込んだ意見がありました。あるいは各々が自分自身の深いところまでツァラトゥストラを招き入れて言葉を引き出してきたようでもありました。
4ヶ月かけてこうして一冊、議論しながら読み切ってみると、得られたものはとても大きく、しっかりしたものであったように思われます。『ツァラトゥストラ』を読みながら、背景にある哲学的な問いをすでに意識しながらそれぞれの問題関心を探っていけたようです。この読書会で将来『ツァラトゥストラ』を再読したらどんな議論ができるかと考えると楽しみが広がります。
ツァラトゥストラは肉体が欲するものを精神より上に置きます。では、この肉体が欲するものとは何なのか。この欲望には善悪、上下があるのかということについて、Sさんは知識欲こそ最上の欲求なのではないかと言います。Sさんの「哲学と出会う前の自分は世界のことを全くつまらないものと思っていたが、哲学と出会ってからは世界が素晴らしいものだと思えるようになった」というこの日の告白は、重みは違うかもしれませんが、僕にとってもとても現実味のあるものとして感じられました。
この読書会が始まる前、僕自身は参加するかどうか決めかねていたのですが、ちょうど『ツァラトゥストラ』が話題になっていたことで参加する流れとなったことは以前書いた通りです。この読書会で『ツァラトゥストラ』を読む過程で、背景的な知識を調べたり、哲学の入門書に触れたりして関心が広がり、いろんなことに理解が得られました。一人で読んでいたら決してこのような、次を読むのが楽しいワクワクする気持ちにはなっていなかったと思います。
次に読む本はプラトンの『プロタゴラス』になりました。Mさんの「哲学の最初に戻ってみる?」という発言から、Kさんが「それならプラトンがいいと思う」と言い、僕がちょうどソクラテスに興味を持って『プロタゴラス』を持参していたということもありました。プラトンの書いたものは対話形式になっていて、まるで物語を読んでいるような面白さがあります。当時のギリシャ社会はこのような雰囲気だったのかという面白みもあります。『ツァラトゥストラ』より読みやすいし、ボリュームも手頃なので、次回は『プロタゴラス』一冊を読んできて議論することになりました。