大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2016.7.20 読売新聞「天王寺動物公園、通路を夜間封鎖へ…大阪市 」

天王寺動物公園、通路を夜間封鎖へ…大阪市

「てんしば」「ハルカス」集客、ホームレス対策

 大阪市は今秋から、天王寺動物公園(天王寺区)内の通路を夜間、封鎖する。同公園では昨年10月、芝生広場「てんしば」ができたほか、高さ日本一の高層ビル「あべのハルカス」も近く、来場者が急増。さらに集客力を高めるため、現在約30人いるホームレスを退去させることでイメージアップを図る考えだが、支援関係者らからは「追い出すだけでは解決にならない」と疑問視する声も出ている。

◆来場者4倍

 てんしばは元々は同公園の一角で、芝生スペース(約7000平方メートル)や周囲の飲食店などを含むエリア。同公園へは、てんしばのオープンから今年3月までに209万人が来場し、前年同期の4倍に上る。

 現在の同公園は、てんしばのほか、天王寺動物園と、市立美術館がある天王寺公園に分かれ、両園の周囲には1990年頃までに柵(高さ2・5メートル)が設けられた。かつて急増したホームレス対策ともされるが、市は、にぎわいをさらに増すために柵を撤去し、一帯の常時開放を検討している。

 その際、市が「対応が必要」と考えたのが、それぞれの柵と柵の間にあり、24時間利用できる通路(総延長約750メートル)を行き来し、主に入り口付近で寝泊まりするホームレスだ。

 市は今秋にも、3か所ある通路の入り口にセンサー付きの門扉を取り付け、午後10時~翌午前7時まで封鎖する措置をとったうえで、一部の柵を撤去する予定。将来的には、ホームレスの移動状況をみて門扉も外し、常時開放を実施する意向だ。

◆反対意見も

 通路の夜間封鎖については、新世界の商店主らでつくる「新世界町会連合会」が先月開いた総会で、「天王寺駅などから来るお客さんに遠回りさせ、不便を強いることになる」「災害時の避難路がなくなる」「ホームレスも客となり、共存してきたのが新世界だ」などと反対意見が相次いだ。

 大阪市は今も、全国の自治体でホームレスが最も多いが、天王寺動物公園内では80年代から生活用テントや無許可営業のカラオケ屋台が問題化。98年の市の調査で430人いたホームレスは、行政代執行法に基づく2003年の強制撤去やネットカフェ利用者の増加などで約30人に減ったが、その一人の男性(70)は「どこへ行けば」と戸惑う。

 ただ、通路を利用する近くの無職女性(78)は「寝泊まりしている人がいると不安な感じがする」と言い、市天王寺動物公園事務所は「都市公園である以上、常時開放するのが本来の姿。多くの人に利用してもらうには、やむを得ない措置」とする。市は今後、就労支援窓口の紹介なども行う。

 一方、見回り活動を続ける支援団体「野宿者ネットワーク」の生田武志代表は「追い出しても別の場所に移るだけで本質的な解決にはならない。ホームレスの自立支援には、丁寧な話し合いを重ね、社会の一員と自覚してもらう環境づくりが欠かせない」と話す。
2016年07月06日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

(転載元URL http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160706-OYO1T50015.html) 

2016年9月18日(日)第4回哲学読書会『ツァラトゥストラかく語りき』3

 第4回となった哲学読書会、『ツァラトゥストラかく語りき』の第3部について語り合いました。超人という生き方に目覚めたツァラトゥストラがそのことを初めて語り始めたのが第一部とすれば、語り続けながらも弟子たちの受け止め方に疑問を抱くのが第二部なのではないか──というような気づきが得られたのが前回の読書会でした。

 第三部でツァラトゥストラは最初に降りてきた山に「帰郷」するのですが、その「帰郷」の前にダメ押しのようにこれでもかとツァラトゥストラは否定的な現実にぶつかり、そのことごとくをやけくそのように否定していきます。帰郷したツァラトゥストラは深い眠りについた後目覚め、生き生きと語りだし、その始めからよき理解者として描かれていた鷲や蛇はツァラトゥストラの復活を喜びます。しかし、彼らはツァラトゥストラに「あまり語るな」と言い聞かせ、踊ることや歌うことを勧めます。肉体の精神に対する優位の思想を基礎とする『ツァラトゥストラ』という作品は、語れば語るほど語りきれないものを生み出してしまい、超人たろうとするツァラトゥストラを超人であることから遠ざけるという皮肉な結果を導いてしまうように思われます。

 今回もKさんの解説を聞くところから読書会は始まりました。Kさんは、そのテキストの中で語られている範囲で解釈を深めるという哲学のトレーニングを意識して解説をしてくれているということがわかりました。初級編として徹底的にテキストを読み、中級編で解説と合わせて読めば、上級編としてニーチェのその他の著書も読み解けるようになるということです。Kさんを哲学のツァラトゥストラだとすれば、ほとんど初学者の僕たちはツァラトゥストラをやきもきさせる弟子たちかのようです。『ツァラトゥストラ』はツァラトゥストラという、人の好さから他人を見捨てて一人で超人になりきることのできない人物の試行錯誤の経験を綴るものであり、ツァラトゥストラのように超人を目指してなりきれぬところに現代を生きる我々へのこの作品の恵みがあるように思えます。

 第三部はツァラトゥストラの「永遠」への賛美で幕を閉じます。これで『ツァラトゥストラ』の物語は完結しているように思えます。果たして第四部は何を語るものになるのでしょう。そろそろ次に読む本も選ばなければなりません。一冊目が終わったところで今後どのような形で読書会を進めていくのか。これまで生きて来た経験も考え方も違う人間が哲学書を読むために月一回集まってあれこれ語り合う繰り返しは思えばまだ始まったばかりです。

2016年9月11日(日)寄り合い

 定例寄り合いを行いました。今回も多数の方にご参加いただき、持ち寄りご飯も充実していました。写真には写っていないものもあります。

 この後、デザートとしてメロンやイチジク、菓子パンの差し入れもいただきました。旅行のお土産としていただいた漬物はみんなで分けました。

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 食後はこの日のために買ってきたコーヒーを淹れたのですが、例のごとく写真を撮り忘れました。

 今回はおすすめの書籍を持ち寄って、路上文庫を試みました。今後も定例化して行うかもしれません。原口剛さんの新刊『叫びの都市──寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』もお持ちいただきました。

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 将棋もさしていました。今後はもう少しレクリエーションを工夫してもいいかもしれないと思いました。秋のソフトボール大会の日程調整も進めています。

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 寄り合い報告としては余談となりますが、東屋は盆明けに解体工事が始まり、白鉄板で囲われています。この日、隙間から覗くと解体はほとんど完了しているようでした(下の写真は8月18日の夜回りの時のもの)。

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2016年8月28日(日)第3回哲学読書会『ツァラトゥストラかく語りき』2

 前回から少し間が空いて第3回哲学読書会は引き続き『ツァラトゥストラかく語りき』の第二部を扱いました。

 冒頭、Kさんがテレビドラマの『家売るオンナ』に触れ、第7話で白州美加に対する主人公の三軒屋万智はまさにツァラトゥストラであったと指摘しました。売却され取り壊されることになった実家を守るために、三軒屋に対峙して白州は人が変わったように努力するものの、努力虚しく、最後の抵抗で現場で立てこもります。自分の過去を白州に語り、白州自身が過去から解き放たれることを説く三軒屋万智の姿が超人になぞらえられているのではないかと言うのです。実際『ツァラトゥストラ』はいろんな作品、映画や歌詞などに取り入れられている例が多く見られることをSさんが教えてくれました。難解で取り付きにくい面もある『ツァラトゥストラ』ですが、一度触れておくとじわじわ効いてくる一冊なのかもしれません。

 中身の議論については、すでに最後まで読み終わって何度も読み返しているというKさん、Sさんの意見に押され気味ではじまりました。僕自身は自分なりの理解の仕方を模索しながら読んでいて、ようやくとっかかりが見えてきたかなというところなので、細かいところの解釈までは追いつけません。お二人の意気込みにこちらも応えなければと思うとともに、少し手加減もして欲しいところです。

 第二部はツァラトゥストラが弟子たちを見限る構成になっていて、第三部以降は弟子たちは出てこなくなるそうです。第二部では、弟子たちの反応に対してツァラトゥストラが「首をふる」という描写がやたらと目立ちます。また、「せむし男」に対する会話のなかで、すでにツァラトゥストラは弟子たちに語っているようで弟子たちに語っていないことをうかがい知ることもできます。僕自身は読んでいてまったく気づいていなかったので、こんな仕掛けがあったとはと驚きました。

 『ツァラトゥストラ』で言われている超人とは、完璧な人間や何か突き抜けた能力を持つ存在ではなく、常に迷い、傷つきながらも自らの意思を持って歩み続ける普通の人間の生き方を指しているように思われます。ツァラトゥストラ自身も「自分は人間と超人との架け橋だ」というふうに語っていて、超人そのものというわけではなさそうです。第二部だけを取っても駱駝・獅子・幼子の変化は一過性のものではなく、ツァラトゥストラの中で繰り返されています。『ツァラトゥストラ』は近代という時代を生きるすべての人たちにとって当たり前の生き方を、苦しみながらも受け入れ、肯定しようとした歴史的な書物ということかもしれません。

 最後にKさんから、この『ツァラトゥストラ』で哲学を好きになる解説書を書きたいという提案がありました。「この一冊(ツァラトゥストラ)をきっちり読んだら万事のためになる」というような解説書です。Kさんが『ツァラトゥストラ』に興味を持ったきっかけはとあるプロ野球選手が読んでいると知ったことでした。また、Sさんによれば若者たちに人気のあるバンドの歌詞に『ツァラトゥストラ』が取り入れられている例があるそうです。今を生きるわれわれにとって哲学への関心が高まってるなら『ツァラトゥストラ』はやはり今読まれるべき重要な一冊ではないかと言うのです。

 まだ全員が読み終わってもない段階で聞くには壮大なプランです。しかし、『ツァラトゥストラ』を読んでいると確かにこの時代がどんな時代であり、どのように生きていけばよいかを考え抜いてきた人々の知的な積み重ねそのものへの理解が深まるような感じがします。この読書会の地道な継続もまた、良き生き方を考える歩みになると思われます。

2016年8月7日(日)寄り合い─―そうめん大会

 今回の寄り合いは毎年恒例のそうめん大会でした。

 よろずからはそうめん30束と薬味類、釜飯を用意していきました。そうめんつゆは大阪城公園で野宿するAさんが作って下さいました。

 夕方まで生ぬるい暑さの一日でしたが、みんなで食べるそうめんは格別でした。

今回も食べる前に写真を撮るのを忘れました

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東屋の取り壊しの告知、なぜか具体的な日付はなし

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2016年7月17日(日)寄り合い

 今月の寄り合いはスケジュールの都合から哲学読書会の後に実施することになり、持ち寄りご飯の用意の時間がとりづらいことから、前夜にカレーを仕込んで持って行くことにしました。
 以前カレーにした時も感じたことですが、外で食べるカレーは妙に美味しく感じられます。みんな積極的におかわりをしていたので、鍋二つ用意したカレーはみるみるなくなりました。
 今日は他の現場で活動する支援者二人も参加してくれて、秋のソフトボール大会の計画を立てました。
 この春に入院して退院後は生活保護を受けることになったKさんも顔を見せてくれました。

カレーの写真を撮り忘れ、余ったご飯で作ったおにぎりの写真

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太陽の広場の「大阪城ウォーターパーク」が開設されていました

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サーカスのテントのような仮設感が漂っています

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ハウステンボスの宣伝スペース力入りすぎ

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ロードトレイン?聞いてないぞ!

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2016年7月17日(日)第2回哲学読書会『ツァラトゥストラかく語りき』1

 第2回哲学読書会はニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の第1部について語り合いました。
 任意の章から話し始め、関連しそうな章と章を行ったり来たりしながら解釈を深めます。そうして読み合せていると、独立しているかに見える章も実はつながりがあり、前の章の内容が次の章の展開に対応しているらしいことに気づきます。
 例えば冒頭の「三つの変化について」に続く「徳の講座について」は、若者たちに尊敬されている賢者の講座に対してツァラトゥストラが内心でダメ出しするといった内容です。これからツァラトゥストラの教説が始まるにあたって、既存の権威を相対化するところから始まるわけです。
 終わり近くにある「子どもと結婚について」は、表面的には男女の結婚の理想を述べているようで、本質は超人になるための生き方と関係のあり方を提示した重要な章に思われます。一見してニーチェの女性観が示されているかのような「老いた女と若い女について」を照らし合わせて読むと、この章がなぜこの場所に設けられているのか、いかなる意図で書かれているのか、多様な解釈が可能になります。
 「ここは素朴にこういうことを言っているんじゃないか」「いや、そんな俗なことをわざわざ言う必要はないから、ここにも何か比喩があるはずだ」とメンバーそれぞれの読み方と食い下がることで一人で読んでいるのでは出てこなかっただろう着想にたどり着くことができます。こうした今後の読書会自体を実り多いものにしていく作法が自ずと確認できたという意味でも今回の読書会は面白いものになりました。