どんな大義をはたすにも、まったく嘘や欺瞞、裏切りをともなわないなどということはないのかもしれません。あるいは、どんな嘘や欺瞞、裏切りを含んでいたとしてもはたされる大義はあるのかもしれません。
これはつまり問いの立て方がまちがっているのでしょう。大義をはたすことと、あやまちを犯すことは別の問題だからです。大義をはたさないことがあやまちになってしまうことはあるでしょう。しかし、人はまちがわずに生きていくことなどできません。あるいは、正しさを求めることはまちがいを求めることであり、大切なのは正しいかまちがっているかではなく、正しさとまちがいを求めた先に求めた何かなのでしょう。
決して許せないまちがい、救いようのないまちがいも避けられないものです。しかし、それは正しさを確かめるためにただあるものだとすれば、償われることがなくとも、風化するに任せていればいいのだと思います。
どうして夜回りをしてこんなことを考えなければならないのか不可解に思われるかもしれません。20年余におよぶよろず相談の活動よりも、ただ風化を待つには時間がかかるかもしれないものが邪魔に感じられる時もあるのです。