「想像の共同体」という言葉があります。共同体とは具体的な人の集まりであり、何らかの共同性を備えたものをいうのだと思います。共同性とは、その人たちにとって共通の課題があり、その解決のために協力し合えることを指していると考えれば良いでしょう。
「想像の共同体」とは、国家のことです。共同体という言葉にそって考えると、国家とは、国民という人の集まりが協力しあって課題の解決にあたることを理想としたものです。具体的な共同体であれば、生活をともにする仲間のあいだで同じ問題に直面する中で生まれてきます。しかし、国家や国民は、最初からそういうものが「ある」ことにして、無理やり信じ込ませようとするものです。つまり「想像の共同体」です。
しかし、「想像の共同体」とは、本来の意味での共同体ではなく、共同体のように錯覚された何かなのだと思います。「想像の共同体」を作り出すには、本来の人間の能力を超えた通信・交通の技術が欠かせません。インターネット上の共同体というのも似たようなもので、インターネットという技術で作り出された錯覚にすぎません。
夜回りでは、別々の場所に野宿している、かならずしも知り合いではない人たちを訪問します。寄り合いはその結び目のようなものです。夜回りや寄り合いは人間関係を作り出すための一つの技術と言えるかもしれません。一人では解決できないことも、協力すれば解決できるという意味では、仲良くすることも個々の人間の能力を超えるための技術だなのかもしれません。
大切なのは「誰にとって」ということです。「誰にとって」が見失われた「想像の共同体」をふくらませることばかりになっている社会では、本当は多くの人が困っているのに課題が見えず、協力できずにいるのだと思います。そのような「想像」の及ばない場所は、ある意味そういう想像力の錯覚から遠い場所でもあります。夜回りは、そこへの定期的な待避であり、課題の模索なのだという見方もできるかもしれません。