私たちは、同じ言葉を使いながら、まったく別のことを語っている人と向き合わねばならない時に生きています。それが分からない人の言葉にからめとられるのは、自分もまた、一方でその用法に縛られているからでしょう。同じ場面で同じ言葉を使っていても道は開けません。別のことを語る人には語りえないような場面でその言葉を使うこと、そして、別のことを語る人が使えないような言葉の組み合わせで語ることによって、道が切り開かれるはずです。そのためには、そのように語れる場所まで行かなければなりません。
まだ誰も手にしていない何かを目指せば、誰かは分からないけど、いずれ必ず誰かが犠牲になります。そして、誰かがその罪を背負うのです。何も目指さず、自分の生活を守っているだけでも、どこかで誰かが犠牲になっています。しかし、そうしていれば、ともあれ自分が罪を背負うことは避けられるでしょう。それでもそこを越えて先へ行こうというなら、そのための世界観が必要です。
犠牲を犠牲だと思えることは、その世界観を構成するものであり、世界観そのものを作り出すために犠牲と見做される人が見出されるのです。誰しもが役割を持っていながら、自分一人で役割を担うことはできません。他者によって生かされていることを思えば、罪も犠牲も与えられたものであるかもしれません。
そこに世界を見ようとする者がいなければ、向かう先も何もあったものではありません。世界を見ようとするには意志を持たぬ意志でなければなりません。そこに見出されるものは己の意志ではないにもかかわらず、見ようとすることだけが、これを可能にする意志となります。
当たり前に機会が得られないことによって貶められた境遇が問題なのだとしたら、ともに抗う仲間ともなりましょう。