大阪城公園よろず相談

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2017年2月12日(日)第7回哲学読書会──デカルト『方法序説』

 今年初めての通常回の哲学読書会は、空気は冷たいものの快晴に恵まれました。今回、Sさんは仕事の都合で欠席、他にも数人が都合が合わず、全部で5人の参加者で行いました。

 ニーチェプラトンと来て、今回はデカルトの『方法序説』を読みました。Kさんの「薄くて読みやすいし、重要な本だから」というお勧めで選ばれました。

 確かに読みやすく、分量的にもコメントしやすかったのか、これまでになくざっくばらんに意見を出し合えたように思いました。読みやすいのも道理で、この本はデカルトが一般の読者に読まれることを意識し、ラテン語ではなく、彼の母国語であるフランス語で書いたものでした。

 デカルトが提唱する四つの規則、三つの格率に加え、全体として6部構成で展開していきます。「どうしてここで動物と人間を対比しているのか」「デカルトはラディカルなのか、保守的なのか読んでいてわからなくなる時がある」など、一人一人の意見について深めて考えていくと、デカルトがこの本を書いた時代背景、このように書かなければならなかった事情、そして、デカルトの人物像などについて、いろんな点について理解が深まりました。

 これから何を読みたいかについても話しました。フーコーの『監獄の誕生』を読みたい、アマルティア・センに興味を惹かれている、ドゥルーズも読みたいなど、個人的な関心から具体的な本や名前なども出てきていました。古典ばかりではなく、みんな運動に関わるような本を読みたいと思っているのではないかと、Sさん、Kさんも、気にしてくれているようです。しかし、もう少し古典を押さえておいた方がいいのではないかというKさんの勧めを受けて、次はアリストテレスの『形而上学』(岩波文庫)の上巻を読むことにしました。

 以前に書いたように、僕自身は個人的に『ツァラトゥストラ』を読んでみようと思っているところで、この読書会の最初の本に選んでもらった経緯があります。『ツァラトゥストラ』は、読み終わっても正直よくわからないところの方が多いように感じていました。しかし、よくわからないままでも一冊通して読むことで、次を読むためのヒントが得られるような感じがあります。それは、ある本を読む際に、前に読んだ本が直接的にヒントを提供するというようなものではありません。一冊を読み通す中で感じ続ける「さっぱりわからない」「意味がわからなくて読むのが苦痛だ」という経験であっても、次の本、また次の本と読み続けようとする中で、そうして自分の中で生まれた疑問や苦痛が少しずつ意味をなしていくように感じられるのです。

 実際、哲学書を読んでいると、いくつもおかしなところがあるように感じられます。とにかく一冊を読み通すことで、自分の勉強量や理解力が足りないだけではないのではないかという疑問が溜まっていきます。その疑問が考える力になっていくように思われます。今回の『方法序説』にも、現在の科学からすれば明らかにまちがったことが書かれていたり、四つの規則にしても、曖昧な部分が残されているように思えます。しかし、この本が面白いのは、デカルトが「自分自身まちがえやすい人間だ」「本当は死ぬまで人の目に触れさせたくないが、後世でいらぬ誤解を増やしたくないから刊行に踏み切った」などと述べているところです。

 読書メモを取っていると僕は、「この人はなぜこんなことを言ったのか」「どういう社会でどういう境遇におかれていたのか」というようなことばかり考えてしまっています。これは『ツァラトゥストラ』の時からずっとそうです。その著者の思想を理解するという大変な作業から逃げて、表面的な考察でお茶を濁して取り繕っている薄っぺらい理解なのではないかと思える時があります。

 しかし、とりあえずそのよう薄っぺらい理解からでも、始めなければ何かを得るチャンスにすら出会えません。結果としてこれが、「哲学」の本筋からすれば、表面的な考察に過ぎなくとも、続けていれば自分にとって大切なものが学べそうな気がします。思想としての哲学を学ぶと同時に、哲学という行為を学ばなければならないということかもしれません。