大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

2024年3月28日(木)夜回り・公園は誰のもの

 難波宮跡公園のテントが一軒なくなりました。2021年頃まではたまにお会いすることがありましたが、2022年に入ると、ビラは無くなっていても姿を見ることはなくなりました。そして、数ヶ月前からもう戻っていない様子がうかがえました。うわさではどこどこにいるらしいと聞くのですが、確かめられていません。

 難波宮跡公園の公園PF I(営利目的民間委託)の募集が2022年2月末に明らかにされ、それ以降、少しずつ排除が進みました。東側のフェンスが取り払われて空き地になり、あからさまな樹木の伐採が行われました。「今ならいい条件で生活保護が受けられるよ」と、大阪市の職員が言ってきたという話も聞きました。

 2022年3月に行ったジェントリフィケーション生活相談会の聞き取りでは、「この公園は今のままの公園がいい」とか、「野宿している人の相談にのってあげて欲しい」など、難波宮跡公園をふだんから利用している地域のかたからの声もありました。

 昼間に公園のそばを通りすがると、楽器の練習をしていたり、犬の散歩に訪れていたり、多くの人たちが思い思いにすごしている様子がうかがえます。お金を出して買うようなものではない価値がこの公園にはあるのに、お金になる価値を植え付けるために木を切り、土を掘り返そうという人たちがいます。

 公園は誰のものなのでしょうか。誰のものでもないなどとはよく聞く言い回しですが、公園は公園を必要とする人のためのものです。この公園でなければ困る人たちのためにあるのだと思います。

2024年3月16日(土)第75回「センターの日」——中島写真を読み解く④——『定点観測 釜ヶ崎 増補版』(2017年、東方出版)

 中島写真の全容を把握するために前回から作品集を見ています。前回は『ドヤ街 釜ヶ崎』だったので、順番通りなら『単身生活者』を取り上げるところですが、この作品はコンセプトがはっきりしていて、収録されている写真もドヤの個室に絞られています。「全容を把握する」という目的からは3つめの作品集を見たほうがよいでしょう。

誰かが撮った写真

 『定点観測 釜ヶ崎』には1999年の葉文社版と2017年の増補版(東方出版刊)があります。「定点観測」とあるように、同じ場所を同じ角度から比較できる写真が収められています。面白いのは、比較の出発点となる写真の大半は中島が撮影したものではないところです。

 古くは1925年、1950〜1960年代を中心とした写真は、個人が撮影したものや行政機関によるものなど、さまざまです。いろんな地点、いろんな角度から撮られた写真を集めようとしたのでしょう。中島さん自身、1969年以降に釜ヶ崎の写真を撮りはじめているといっても、定点観測を志向して撮りためてきたわけではないはずです。また、どこを比較の参照点と定めるかも、なかなか見通せるものではありません。他人が撮った古い写真の中から参照点を発掘していこうというところに、この作品集の戦略があります。

現在との比較

 3時点の比較である増補版に対して、2時点を見開きで閲覧できる葉文社版のほうが視覚的な分かりやすさはあります。増補版は、まず左ページにその観測点の解説文があり、一番古い写真が右ページにあります。めくって次のページに見開きで1994〜1995年頃の写真と2017年時点の写真が並んでいます。

 一番古い写真と比べると、葉文社版と増補版の20年はあまり変化がなく、さほど面白みがないようにも思えます。しかし、2024年現在、私たちが実際に目にしている風景と比べると、ほんの6、7年のあいだにも結構変わってきているなと気づかされます。

鉄板とフェンスの現在

 また、もう一つ気付かされるのは鉄板とフェンスの存在です。ある観測点の1960年の写真には、1985年頃まではあったというバラックが写っています。1994年の写真ではバラックがあったであろう場所がまるまる鉄板とフェンスで囲われています。2017年にはその鉄板とフェンスは撤去されているものの、後方に写った南海線の高架沿いはやはり鉄板とフェンスで封鎖されています。

 追い出しては鉄板とフェンスを張り、何かを作ってはまた張り直す。釜ヶ崎の街はこの20年あまり、労働者が安心して集える場所を壊しながら、いびつな方法でつぎはぎ状態にされてきたのではないでしょうか。

「記録の力」の内実へ

 『定点観測 釜ヶ崎』にも巻末資料が収録されています。古い地図や新聞記事、石碑など、写真とは異なるメディアもふんだんに活用して、釜ヶ崎の歴史と風景の連続性を想像させます。そのほか、いくつかのテーマで写真が集められています。

 やはりここにあるのは「記録の力」なのだと思います。そして、「記録の力」を引き出すために中島さんがやっていることの内実について、次回は掘り下げてみようと思います。

2024年3月14日(木)夜回り・夜回りと寄り合いで現れる問題

 大きなことから小さなことまで問題というのはあるものです。小さいからといって解決がたやすいわけではなく、大きいからといって耐えられないわけでもありません。

 お金があれば解決できる問題は少なくないし、お金がないために起こる問題というのもあるでしょう。そして、お金があってもなくても解決できず、起こってくる問題もあります。

 一人では解決できない問題も、二人なら、あるいは三人なら解決できることがあるだろうし、何人よろうと、頭数が増えたからといって活路の見出せることばかりではありません。それでも、一人ではどうしようもないことはあります。

 問題は、それを受け止めてくれる相手がいなければ語ることもできません。今この状況でこの人に語ったところで、ろくでもない反応をくらうだけだろうという場合はどうしようもなくあります。また、そんなことを語られても受け止めるわけにはいかないこともあります。

 受け止めたからといって解決を約束したことになるわけでもありません。結局、問題に向き合うのは自分自身で、他人と交わることで解決できたとしても、解決は自分にしかできません。

 状況が変われば問題も変わります。状況を変えることにためらいがあるとして、状況を変えたことではじめて現れる問題もあります。「これであがり」などということは生きている限りはありえないでしょう。

 月二回の夜回りと月に一度の寄り合いで何を変えられるわけでもありませんが、それによって現れる問題があることは確かだと思います。

2024年2月29日(木)夜回り・木を見て、野宿を見る

 夜回りのビラはだいたい前日の夜に書いていますが、今週の夜回りもまた雨が降りそうです。傘をさすにしてもカッパを着るにしても、ビラやカイロなどをもモソモソとそろえるのがわずらわしく感じられます。しかし、そう考えていると、野宿をしているみなさんの感じているわずらわしさや辛さは、毎日毎晩であることに思いいたります。

 この数年、大阪市では大量の街路樹や公園の樹木が伐採されていっています。電線への干渉や根上がりなど、「伐採せざるをえない理由」があげられているようですが、管理の手間や費用をなくしてしまうために処分しようとしているように見えます。そのくせ、何かと口実をもうけて市民から桜の植樹費用の寄付を募っています。

 扇町公園では56本にも及ぶ樹木が、多くは状態が悪くないにもかかわらず、伐採予定だそうです。先日、現地説明会がひらかれ、市民からは根上がりしていても伐採せずに処置をする方法があることが指摘されていました。しかし、扇町公園事務所の職員の回答はかみ合わないものばかりでした。

 かつて野宿者排除に反対する申し入れに対して大阪市の職員がとっていた態度もこんなものだったなと思い出しました。人間を追い出すのも木を切るのも、この人たちには同じことなんだなーと気付かされますが、木を見ているだけでも、野宿を見ているだけでも、このことは分からないというのは、結構大事なポイントのように思われます。

 

2024年2月17日(土)第74回「センターの日」——中島写真を読み解く③——『写真集 ドヤ街——釜ヶ崎』(1986年、晩聲社)

全体の構成

 今回は中島さんの最初の写真集である『ドヤ街——釜ヶ崎』を取り上げたいと思います。

 この写真集は4つの部分に分かれています。まず、導入のⅰは新聞記事からはじまります。1932年の米騒動の記事、1961年の第一次暴動の記事、1967年の第三次暴動の記事と続きます。そのあと、阿倍野斎場に収蔵されている墓籍と書かれた2冊の冊子(明治、大正、昭和初期)、明治7年の今宮村の地図の写真が掲載されています。そして、最後に前回紹介した阿倍野斎場の無縁仏の碑などの写真が見られます。

 ⅱはこの写真集の中心となる部分です。前半はドヤで暮らす労働者の部屋が、本人の姿とともに撮られた写真です。これらの写真にはホテル名、1泊部屋代、ランク、タイプ、撮影年が書かれています。後半は監視カメラの写真、越冬活動、「ふるさとの家・老人センター」の無縁仏ロッカー、センターやメーデーの写真、建設中のドヤ、炊き出しに並ぶ人の姿などです。

 ⅱの写真が1985年から1986年にかけて撮られたものであるのに対して、ⅲの写真は1969年から78年にかけて撮られた18枚です。キリスト教会、大きな錠前のついた扉、公園のトイレの手洗い場で足を洗う男性、路上の絵描き(?)、仕事の風景、電柱に貼られたビラ、労働現場、野外でくつろいでいる労働者たちの写真が見られます。

 最後は「資料」編です。第一次暴動の新聞記事、1933年の武田麟太郎の小説『釜ヶ崎』の冒頭部分、『労務者渡世』の記事などから転載された文字資料、図表などがあり、「第一次タイプ」から「第五次タイプ」にわたる「絵でみるドヤの変遷」というイラストがあります。

作品作りの過程

 タイトルが「ドヤ街」であり、写真の枚数から言っても、中心的位置付けにあるのはⅱの前半のドヤの個室の写真でしょう。一人のカメラマンとして釜ヶ崎をテーマとした写真集をまとめようとした時に、ドヤの個室のユニークさに着目したのでしょう。ここが出発点であることはまちがいないと思います。ここを作品の中核とするためにほかの部分があるはずです。

 ⅰは釜ヶ崎の労働者の社会的、歴史的な位置づけをしようとした部分だと考えてよいでしょう。釜ヶ崎を語るのに暴動を外すわけにはいかないし、大正期の米騒動と暴動を地続きで位置づけようという意図が見られます。「資料」の文字情報はⅰでしめした枠組みを補おうとしたものだし、「絵でみるドヤの変遷」のイラストはⅱのドヤの個室の写真の理解をふくらませるためのものでしょう。最後にⅲは「ドヤ街」のコンセプトをつかむ以前に撮りためた写真のなかからのセレクトということになるのだと思います。

 ドヤの個室の写真は労働者の「生活」をとらえた部分と言えるでしょう。言うなれば「生」の部分を光とし、影の部分としての「死」を対置するものとして無縁仏にまつわる写真があるように思われます。

中島写真の戦略——「記録の力」

 中島さんの写真は、1枚1枚取り出して観るものではなく、何か設定された軸があって、その軸に沿って蓄積される「記録の力」を活かすのが基本戦略なのでしょう。「記録の力」を念頭に、次回以降も、もう少し作品集を見ていきたいと思います。

2024年2月15日(木)夜回り・文章はなぜ書けるのか

 文章はなぜ書けるのかを考えてみましょう。文章を書くためにはまず最低限文字が書けねばならないでしょうが、そこまで細かく考えるのはやめておきます。

 人は何かを考えてしまうものだし、考えるためには言葉を使うのだから、それを文字にしてしまえば文章になるはずです。しかし、実際は私たちは文章のように考えていないので、考えを文章の形にまとめなおす必要があります。

 「文章をふくらませる」と言いますが、文章を書くためには、文章にまとめてもその後に残骸が残るほどの余裕が必要です。ふだんあれこれ考えていて、どういうことなのかまとめてみたいという欲求があってこそ、文章はまとめられるのでしょう。

 あるいは、それと意識していなくても、何かができているということは、そのためにやっていることがあるはずで、やっているからにはまとめられるだけの素材を発見するということもあります。

 文章を書くには技術が必要で、分かりやすく書くための技術もあれば、難しいことを難しいままに書き切る技術というのもあります。しかし、問われるべきはなぜ文章は書けるのかでした。簡単か難しいか、上手いか下手かとは関係のない水準でこれを問いたいのです。

 そもそもなぜこんなことが問われねばならないのか、目的を達したればこそ、明らかになるのだとすれば、その答えは「問いがあるから」ということになります(やれやれ……)。

 来月の寄り合いは3月10日を予定しています。

2024年2月1日(木)夜回り・進化論の真理

 昨年末から取り憑かれたように進化について書かれた本を読んでいます。読みはじめてみると進化に関する本というのは山ほどあって、10年、20年のブームではないようです。

 進化とは、何世代にもわたって生き残った人たちの遺伝的な特性が引き継がれる過程によって起こるものです。気候変動があったり、自然災害があったりするなかで、生き残れた人たちが結果的に適応的である、つまり進化したとみなされます。結果としての進化は人によって見出されるものですが、そうでなくとも進化という過程は進行します。

 このような自然淘汰に対して、性淘汰というのもあります。これは異性に好まれた個体の特性ほど、生殖を通してより広まっていく現象を言います。自然淘汰が生存に有利な条件を備えた者の残存であるのに対して、性淘汰では必ずしも生存に有利な個体が適応的なわけではありません。生存の役には立たないにもかかわらず、異性から魅力的だと思われた特性が広まっていくので、不合理な結果をもたらすことも考えられます。この不合理な部分から私たちの個性が生まれてくるのでしょう。

 これが否定しようにも否定できない真理であるとしても、しかし、これは私たちを支配する原理ではありません。神さまの手のひらの上で踊っているに過ぎないとしても、私たちが神さまの目線で見る必要はないし、たとえ神さまがいるとしても、私たちは神さまではありません。私たちには私たちの真理があるはずなのです。あるいは真理なんてなくても構いません。生きることは真理に気づくことを含みつつ、真理の中にはないのだと思います。