いつもお借りしている場所が使えなかったので居酒屋で行いました。
シュタイナーの『自由の哲学』の第1章から第3章までを振り返りました。シュタイナーの後半生は神秘主義者としてのもので、『自由の哲学』で書かれているようなこととはガラッと内容が異なってきます。にもかかわらず、あるいは、その分、『自由の哲学』の明晰さ、論理性が際立ってきます。
ところが、あらためて読んでみると、ところどころ神秘主義を感じさせるようなフレーズが紛れ込んでいます。「われわれの内で自然そのものが生きている(内なる自然)」、「『自我』ではない『自我』以上の何か」といった表現がところどころに見られ、超感覚的なものを意識した思考を行おうとしていることがうかがえます。
二元論が主体と客体を分断し、「われわれと世界の間に壁をつくる」ものであるのに対し、シュタイナーは認識している自分自身、人間自身も自然の一部であり、宇宙内の存在であるという前提に立とうとしているように思えます。一元論、二元論といった対立自体が錯覚であり、別の角度からそうした錯覚を乗り越えようとしているかに感じられます。その仕掛けとして重要なのが「思考」であり、「思考」に導き出されるように現れる「意識」の位置付けであるようです。
最近ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を読んだKさんは、こうした認識の仕方の議論に興味を覚えるといっています。Kさんが別の人とやっている読書会で読んでいるバートランド・ラッセルの認識論にも同じような面白さを感じるようです。
『自由の哲学』はあと2回かけて読み直す予定ですが、次に読みたいものも見えてきそうです。