大阪城公園よろず相談

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2017年11月1日(水)第12回哲学読書会『笑い』(2)

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 前回に引き続き、平凡社ライブラリー版のベルクソン「笑い」に併録されたフロイト「不気味なもの」とジリボン「不気味な笑い」を読みました。

 このような取り合わせでの訳出となったのは、無名なジリボンの論考を訳者がたまたま見出したためだそうです。ジリボンは、ベルクソンの「笑い」とフロイトの「不気味なもの」を照合しながら、ベルクソンの思想を「枠」という観点から読み解いています。

 ベルクソンの論考もフロイトの論考も、実際の悲劇や喜劇を題材に組み立てられているため、それらの作品を知らない者には十分な理解が難しいように思われました。それでも興味深いのは、ベルクソンが「笑い」の生起するメカニズムとその社会的機能に着目している点でした。続いてフロイトを読むと、面白いことに、人が「不気味さ」を感じる状況は、「笑い」が生じる場合といくつかの共通点を持っていることがわかります。

 同じパターンをたどりながら、一方で「笑い」が起こるのに、もう一方で「不気味さ」を抱かされるのは何故なのか。認識主体の立ち位置と、その事態を取り巻くパターン(枠)が見えているかいないかが分かれ目であるようです。このように考えると別段難しいことを言っているわけではなく、ジリボンの書き方はわざとわかりにくくしてあるだけのように思われます。

 ついつい単純化してとらえてしまいそうになるところで、Kさんがさらにこだわって考えを述べてくれます。「笑い」は、単に状況から距離をおいた客観的な認識から起こるのではなく、広く共有される感情であり、それが一瞬「枠」の揺らぎによって「不気味さ」に変わりそうになったところで、再び「笑い」に戻る円環に意味があるのではないか。一方フロイトの「不気味さ」は円環をなさない一義的な考察に終わっている。

 ニーチェが「笑い」や身体的なことを肯定的にとらえていたように、「笑い」にも実在に触れるための芸術性が見出されているはずです。悲劇において抱かれる感情は一点に凝集していくのに対し、喜劇で共有される「笑い」は凝集したものを拡散するものです。それゆえ芸術性の低いものと思われがちなのですが、拡散するものでありながら、共有される範囲はもっとも広い感情かもしれません。ジリボンはベイトソンダブルバインドの事例を引きながら、「あそび」と「ふり」という視点を提示します。「あそび」と「ふり」が成立する兆しがどこかにあるはずだが、それは見えにくい。しかし、「笑い」はそこに何らかの兆しがあることを示唆します。「笑い」には、モノとしては見えない実在の姿を、コトとしてとらえる行為なのではないでしょうか。

 正直わからない部分は多いものの、ベルクソンの奥深さが感じられたり、名前は知っていてもなかなか読む機会のないフロイトの思想に触れられたりと、面白い一冊の経験となりました。

 読書会後の交流では、Kさんがもともとお寺の子どもで、仏教を理解したいという動機から西洋哲学にも触れだしたのだというお話も聴きました。Kさんは現在、仲間と2人で週1回ペースで『十牛図』という禅の解説書を読み込んでいるとのことです。

 次回は、悲劇と対比される喜劇を主題としつつ、ニーチェが想起されたこともふまえて、ニーチェの『悲劇の誕生』を読んでみることにしました。

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