大阪城公園よろず相談

大阪城公園を中心に野宿者支援活動を続けている大阪城公園よろず相談のブログです。

「条例で規制 大阪市が提案へ 」毎日新聞2016年12月1日 大阪朝刊 行政 めっちゃ関西

 大阪市は30日、古紙などの資源ごみを無断で持ち去る業者を規制する条例案を、来年2月議会に提案する方針を明らかにした。罰則を設けることも検討するという。

 市家庭ごみ減量課によると、規制対象は古紙と衣類を検討。市は資源ごみを分別収集する一方、2014年から小学校区単位のNPOなどでつくる「地域活動協議会」が契約業者に回収してもらい、売却益の一部を協議会に還元してもらう仕組みを始めた。

 この方式は20カ所で採用されているが、無断の持ち去りが相次いでいるという。この日の市議会本会議で、吉村洋文市長は「地域活動の財源確保に役立つ重要な施策だ」と述べ、規制の必要性を強調した。

 ただ、路上生活者らの自立手段を奪う可能性があるとして、空き缶などは今回の規制の対象にしないという。【岡崎大輔】

 

古紙持ち去り:大阪市、規制条例案を提案へ 罰則も検討 - 毎日新聞

Yさんの葬式に寄せて

 去る2017年1月の半ば、Yさんが路上死したという報せがあった。16日にお別れと出棺の場が設けられるというので朝から葬儀場に出かけた。

 Yさんはかつて野宿生活をしており、あちこちの現場にも顔を出して支援者とのかかわりも多い人だった。僕はこの機会まで知らなかったのだが、障害年金を受給しているため、野宿生活をしながらも、金銭的には余裕はあったらしい。

 いつもサングラスをかけ、すらっとした大柄な体格で、片足を引きずって歩いていた。ふだんは格好をつけた言動に振り回されてあまり意識していなかったが、思えばあのサングラスは視力に問題を抱えていたためだったのだろうと今さらながら気づく。

 しばらく前から生活保護を受給して暮らすようになっていた。最近ではどこでどうしているのかよくわからなくなっていた。風のうわさで「出現情報」を耳にすることがあり、相変わらずあちこち顔を出していたようだ。個人的には数年前、大阪市外へ向かう電車の中でばったり出くわして驚いたことを思い出す。

 生活保護を受給して、家もあるはずなのに路上死したという報せはショックだった。生活保護を打ち切られたのか、何らかのトラブルに巻き込まれたのか。真相はほとんど闇の中だ。

 お別れは当日の朝10時から30分間のみ。すぐに出棺となり、火葬場に運ばれる。少し早く着いて霊安室に案内してもらう。Yさんの本名はTさんだった。すでに数人が集まっていた。棺桶を横置きできる程度の幅の部屋が連なっていて、パイプ椅子が2列、8脚並んでいた。

 暴力をふるわれたのではないかと心配していたが、顔に少し血が付いているものの、打撲のあとや裂傷などは見られない。何かの拍子に転んで打ちどころが悪かったのだろうか。衣服は薄手のジャンパーかと思ったら、よく見ると検死の後に遺体をくるむためのジッパー付きの袋のようなもののようだ。お坊さんが来るわけでもないので、正確には「葬式」でもない。葬儀場の職員は約束の30分も経たないうちに早めに打ち切りたいようだっだ。亡くなった状況もわからず、身ぐるみもはがされて、形式的な「お別れ」の時間が設けられただけで火葬されてしまうのはあまりに哀しい。

 Kさんが棺桶の中に自作のビラを入れた。よろずも何かないかと探してみたら、保存用に取っておいた昨年の夜回りのビラがかばんの中に入っていた。自分たちのビラを棺桶に入れると、最後にYさんと言葉を交わせたような気持ちがして少しうれしかった。

 霊柩車が出る際、葬儀場の職員の人に合掌しての見送りをうながされたが、不十分なままに最後まで形式的に送り出させられるのに抵抗感があって、合掌するのはやめておいた。

 親族ではないわれわれは検死の結果を知ることもできない。仕事の都合で見送りの場にすら来れない場合もある。僕らにできるのは、野宿の仲間と当たり前の交流を続けていくことしかないのかもしれない。僕たちがお互いにいろんな人たちと関係を築く中にYさんも生きていた。僕たちが知っているYさんは、そのような関係の営みの中で笑ったり、怒ったりしていたのだ。それなら、この営みをこの先も続けていくことが僕たちにとってYさんの葬いでもある。この場所、この出会いを。

2017年2月12日(日)第7回哲学読書会──デカルト『方法序説』

 今年初めての通常回の哲学読書会は、空気は冷たいものの快晴に恵まれました。今回、Sさんは仕事の都合で欠席、他にも数人が都合が合わず、全部で5人の参加者で行いました。

 ニーチェプラトンと来て、今回はデカルトの『方法序説』を読みました。Kさんの「薄くて読みやすいし、重要な本だから」というお勧めで選ばれました。

 確かに読みやすく、分量的にもコメントしやすかったのか、これまでになくざっくばらんに意見を出し合えたように思いました。読みやすいのも道理で、この本はデカルトが一般の読者に読まれることを意識し、ラテン語ではなく、彼の母国語であるフランス語で書いたものでした。

 デカルトが提唱する四つの規則、三つの格率に加え、全体として6部構成で展開していきます。「どうしてここで動物と人間を対比しているのか」「デカルトはラディカルなのか、保守的なのか読んでいてわからなくなる時がある」など、一人一人の意見について深めて考えていくと、デカルトがこの本を書いた時代背景、このように書かなければならなかった事情、そして、デカルトの人物像などについて、いろんな点について理解が深まりました。

 これから何を読みたいかについても話しました。フーコーの『監獄の誕生』を読みたい、アマルティア・センに興味を惹かれている、ドゥルーズも読みたいなど、個人的な関心から具体的な本や名前なども出てきていました。古典ばかりではなく、みんな運動に関わるような本を読みたいと思っているのではないかと、Sさん、Kさんも、気にしてくれているようです。しかし、もう少し古典を押さえておいた方がいいのではないかというKさんの勧めを受けて、次はアリストテレスの『形而上学』(岩波文庫)の上巻を読むことにしました。

 以前に書いたように、僕自身は個人的に『ツァラトゥストラ』を読んでみようと思っているところで、この読書会の最初の本に選んでもらった経緯があります。『ツァラトゥストラ』は、読み終わっても正直よくわからないところの方が多いように感じていました。しかし、よくわからないままでも一冊通して読むことで、次を読むためのヒントが得られるような感じがあります。それは、ある本を読む際に、前に読んだ本が直接的にヒントを提供するというようなものではありません。一冊を読み通す中で感じ続ける「さっぱりわからない」「意味がわからなくて読むのが苦痛だ」という経験であっても、次の本、また次の本と読み続けようとする中で、そうして自分の中で生まれた疑問や苦痛が少しずつ意味をなしていくように感じられるのです。

 実際、哲学書を読んでいると、いくつもおかしなところがあるように感じられます。とにかく一冊を読み通すことで、自分の勉強量や理解力が足りないだけではないのではないかという疑問が溜まっていきます。その疑問が考える力になっていくように思われます。今回の『方法序説』にも、現在の科学からすれば明らかにまちがったことが書かれていたり、四つの規則にしても、曖昧な部分が残されているように思えます。しかし、この本が面白いのは、デカルトが「自分自身まちがえやすい人間だ」「本当は死ぬまで人の目に触れさせたくないが、後世でいらぬ誤解を増やしたくないから刊行に踏み切った」などと述べているところです。

 読書メモを取っていると僕は、「この人はなぜこんなことを言ったのか」「どういう社会でどういう境遇におかれていたのか」というようなことばかり考えてしまっています。これは『ツァラトゥストラ』の時からずっとそうです。その著者の思想を理解するという大変な作業から逃げて、表面的な考察でお茶を濁して取り繕っている薄っぺらい理解なのではないかと思える時があります。

 しかし、とりあえずそのよう薄っぺらい理解からでも、始めなければ何かを得るチャンスにすら出会えません。結果としてこれが、「哲学」の本筋からすれば、表面的な考察に過ぎなくとも、続けていれば自分にとって大切なものが学べそうな気がします。思想としての哲学を学ぶと同時に、哲学という行為を学ばなければならないということかもしれません。

2017年2月5日(日)寄り合い──おでん

 今回の寄り合いはおでんにしました。一昨年の年末に大変好評だったことから、冬の定番になりそうです。

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 雨が降りそうだということで、前日に急遽購入したテントがデビューしました。晴れの日にも張りたくなります。重量があるので運搬が課題です。

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 少し雨が降っていましたが、寄り合い中はテントを張るほどでもありませんでした。哲学読書会が雨に降られやすいのと対照的です。地脈がどうとかいう話から、Sさんが野宿中に経験した(している)霊障や事件などについてお聞きしました。

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2017年1月14日(土)哲学読書会番外編、プラトン『テアイテトス』

 11月末の読書会の後、年末年始は越冬で予定が立て込むので、哲学読書会は少し間を空けて2月の開催ということになりました。しかし、2ヶ月以上空いてしまうのはちょっともったいないということで、有志に声をかけて、ちょっと長めでもいいから一冊選んで番外編の読書会をやろうということになりました。Kさん、Sさんとも相談して、いろいろ検討したのですが、復習の意味も込めてプラトンの『テアイテトス』を読むことに決めました。

 土曜日の冷えた朝にオシテルヤで行う読書会は、普段とは違った静けさがあって良いものでした。今回の参加者はKさん、Sさんを含めて4人でした。

 前に読んだ『プロタゴラス』と比べて、同じプラトンの対話篇でも『テアイテトス』は難解でした。『テアイテトス』は、若き日のテアイテトスに対するソクラテスのレクチャーという形式をとっています。『プロタゴラス』は、すでに権威あるプロタゴラスに対して探りを入れながら議論を展開するものでした。『テアイテトス』では、ソクラテスがテアイテトスを試そうと様々なレトリック、様々なロジックを用います。一つのテーマについて14ものパターンによる例示を一息に列挙されると、とても頭がついていきません。

 Kさんによれば、このような議論は論理学を学ぶことで理解できるようになるそうです。プラトンの対話篇はソクラテスが論理学の知識を基礎として議論を深めようとする作品であると考えておくと、理解の補助線として有益かもしれません。

 必ずしも正解やゴールがあるわけではなく、議論自体も、いささかとっぴに思える事例からスタートするので、最初から最後まで息をつく間もなく難文を読まされる苦しさがあります。しかし、通して読むと、のちの哲学に影響を及ぼす考え方や、ソクラテスの「産婆術」についての直接的な言及もあり、理解半ばであっても、得られるものは少なくないように思われます。プラトンの作品は、読めば読むほど知識の広がりが持てるし、繰り返し読むことでまた、新たな発見がありそうです。

 読書会終了後は、ピコ太郎のPPAPの何が受けているのかを、スマホで動画を見比べながら理解を深めました。

解題「居場所と居場所をつなぐ」

居場所のあり方

 2016年─2017年の越冬に際して、私たちは「居場所と居場所をつなぐ」というフレーズを添えていました。いつからか、居場所の大切さ、居場所づくりの必要性が強調されるようになりました。それだけ居場所が奪われている、居場所をなくしていると思われていることの現れでしょう。しかし、居場所を作り、守っていくだけではやがてその居場所も壊されてしまうのではないかという不安を感じます。一つ一つの居場所を守ることや「みんなの居場所」を拠点として築くことの限界を感じています。たった一つの強固な居場所のあり方に執着するのではなく、居場所は複数あってもいいはずなのです。

 さまざまな人が集まり、さまざまな社会資源が集積した釜ヶ崎という場所の重要性は現在でも損なわれていないし、これからも大切にし、守っていくべき場所だと思います。しかし、この釜ヶ崎とて、野宿生活をする人たち全てにとって、余さずかけがえのない居場所であるわけではありません。釜ヶ崎の存在を知っていても距離を置きたいと感じる人もいます。さまざまな人がいて、社会のいろんな場所で生きていることを考えれば、居場所というのは強固なものがどこかに一つあればいいというものではありません。

居場所の多様性・複数性 

 ささやかでも自分の居場所となっている場所は、おそらく誰にでも少なからずあるのではないでしょうか。それは時には毎日の駅のホームで乗り継ぎの電車を待って過ごす一時的な滞留かもしれません。明確な目的もなく立ちよる商業施設も、用をたすためだけでなく、自分だけの時間を作るために必要な場所かもしれません。家路をたどる際に通過する公園も、ただの抜け道ではなく、その公園が誰にでも開かれた場所であり続けていることによるのです。ビッグイシュー販売員の方たちは、自分が路上の風景の一部になるまで、ねばり強く立ち続けることで、徐々に収益が得られるようになるそうです。ビッグイシュー販売員が毎日立つ路上は野宿者である自分(そしてお客さん)の居場所を作り出す営みのように思われます。

 一昨年からハピネスライフさんと交流を持ち、ついに野宿当事者からこうした場所が作られるようになったのだと驚くとともに、あちこちで居場所づくりを意識した取り組みが広がっていることに思い至りました。ここには同じ問題意識、同じ理念が宿っているように思われます。しかし、大阪城公園での自分たちの経験を振り返るだけでも、こうした取り組みは多くのエネルギーを必要とするわりに意外にもろく、難しい課題にぶつかりがちだということがわかります。

 現在は、一つの理念のもとに結集し、一ヶ所に力を集中させる戦いが難しく、またあまり力を持てない時代状況にあるように思われます。しかしながら、同時に、それぞれの足元をきちんと固めて、力をためていく必要も感じます。このような状況で何か大きな力を生み出そうとするなら、強固な居場所を一つ作るために多くの力を集中させるのではなく、「居場所と居場所をつなぐ」ことが決め手になるのではないかと思うようになりました。

居場所の戦略

 誰かの居場所を知り、交流することで、それまでの自分にとっての居場所も強固になるように思われます。別に居場所がある、他にも行くところがあるという安心感は生活に余裕をもたらし、日々の活力ともなるのではないでしょうか。一枚岩にはなれない、しかし、それぞれが安定し、かつ知り合っていることが支えとなり、大きな流れを作り出す仕掛けとなるのではないでしょうか。

 東屋の排除から私たちは考えはじめました。扉を開ける前からあきらめていないだろうか。扉を見つけたら開けてみる。穴があればのぞいてみる。それで何もなくても損はしません。一つ一つは小さな事実でも、かき集めれば見るべきものを教えてくれるかもしれません。小さなことでも共に取り組んでいける仲間が必要です。誰かが作っている居場所を訪ねて知り合うという、一つ一つは小さな取り組みが、ピンチの時に助けとなる知恵と力を育んでくれるように思います。

2016年大晦日 オシテルヤ年越しそば

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 2016年の大晦日はオシテルヤの年越そばに参加しました。到着したころには、すでにほんわかした雰囲気ではじまっていました。

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 そばはなんと、こだわりのエビ天そば!おつゆもおいしくて至福のひとときを過ごしました。外で食べるとまた美味しさが増す気がします。

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 オシテルヤ新聞をはじめ、『あしたのロジョー』の海賊版といったレアなリーフレットも並んでいました。

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 そばのほか、お雑煮もふるまわれました。オシテルヤ本館横の駐車場、表の路上で集まった人たちがわいわい立ち話をして盛り上がっている様子を見ていると、さながらそこに「寄り場」が誕生したかのような気持ちになりました。

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 こうした取り組みを毎年積み重ねていける仲間を大切にしていきたいと思います。